第2株:切り裂きジャックの片恋

16/17
12人が本棚に入れています
本棚に追加
/34ページ
「わたしはあなたに、これ以上罪を重ねて欲しくないのです。あなたも本心では殺人を(うと)んでいる筈。もう終わりにしましょう?」 『……来るな。来ないで。来たらこいつを』 「伊吹さまを殺すと? 構いませんわ。他人ですもの。ですがもし、本当に彼を殺せば、わたくしはあなたを心から軽蔑します」 『っ! そんなの……』  テリーの声が尻すぼみになっていく。僕の身体を拘束する力が、僅かに弱まった気がした。   「怖がらないで。大丈夫、わたくしはあなたの味方です。だから、ね? ナイフを捨てて、伊吹さまを放して。そして代わりにわたくしを抱き締めてくださいな」 『……ふざけるなよ。俺たちを置いて日本に行ったのに! 今さら戻ってきて偉そうに説教かよ! こっちの気持ちも知らないで――』 「テリー」  ベロニカさんがピシャリと言った。 「お願い」  テリーの身体がビクリと震える。耳元に当たる涙混じりの吐息。完全に闘志を削がれた気配。彼の腕をそっと押し開いてみると、思いのほか抵抗はなく、喉元から刃が離れた。  テリーを刺激しないよう慎重に、僕はそのまま拘束から抜け出す。  刹那、ベロニカさんが踏み込んだ。テリーの手首を掴み取り、流れるような動きで右回りに捻る。痛みに呻くテリーを引き倒し、自らの体重で地面に押さえ付けて、それでおしまい。一秒足らずの出来事だった。 『ぐっ……姐、さん……』 「ごめんなさいね、テリー。……ごめんなさい」  ベロニカさんが切なげに目を伏せる。その表情に僕は意味ありげなものを感じたけど、殺到する警官たちの身体ですぐに見えなくなった。   「伊吹!」  薔子さんが僕に向かって両手を伸ばす。そこに勢いのまま飛び込むと、彼女は僕を力強く抱き締めた。 「怪我はないか」 「だ、大丈夫です」 「良かった!」  甘い匂いが一杯。こういう場面なら許されるかなと、彼女の背中にそっと腕を伸ばして抱き締め返す。特に何かを言われることは無かった。それだけで十分だった。 『見事な技前だ、少女よ』  ビショップ警部がベロニカさんに喝采を送った。 『人は見掛けによらぬもの。骨身に刻まねばならんな』 「護身術はメイドの嗜みでございますから」  テリーを油断なく拘束したまま、ベロニカさんが微笑む。あれは柔道だろうか、本当に鮮やかだった。僕の周りには女傑しかいないらしい。  薔子さんに肩を抱かれたままテリーの前に行く。すると彼はキッと顔を上げて、憎しみの込もった目で薔子さんを睨み付けた。 「何か言いたいことがありそうだな」 『俺から姐さんを奪ったクソ女め。あそこで姐さんが庇ってなきゃ、その顔グチャグチャに切り裂いてやったのに』  唾を吐くテリー。彼はベロニカさんを愛している。ベロニカさんが日本に住んでいるのは、薔子さんの存在あってこそだ。だから薔子さんを敵視するのも無理はない……のかもしれない。 「私も随分と嫌われたものだ」 『死ね。地獄に落ちろメスブタ』 「――テリー、黙りなさい」  ベロニカさんがテリーの腕を更に捻った。 「わたくしは己の意思で日本へ行きました。己の意思で薔子さまに仕えています。(あるじ)への侮辱は、わたくしへのそれと同義です」 『姐さん』 「…………以前から、あなたの想いには気付いていました。ごめんなさい。わたくしがロンドンに残っていれば、こんなことにはならなかったかもしれないのに」 『……やめてくれよ。謝られたら余計に情けなくなるだろ』  テリーが顔を俯かせる。だけどベロニカさんは、ここで彼を責めるような人じゃない。最後に彼の頭を撫でて、警官たちに拘束の役目を譲った。  そのまま抵抗せず連行されていくかと思われたけど、パトカーに乗る直前、テリーは『待ってくれ』とベロニカさんを見た。 『なあ、姐さん。人を殺すのって、悪いことなのかな』 「……」 『最後に教えてよ。今の姐さんはどう思ってるのか』  悪いに決まってる、と言うのは簡単だ。だけど実際は彼だって、好き好んで殺戮を行っていたわけじゃない。お金を得るという目的があり、生きるためという理由があったのだ。方法の善し悪しは別として。  それを分かっているのか、ベロニカさんは返答に窮した。薔子さんが一歩進み出る。 「私が答えよう。答える価値のある質問かは分からないが」 『あ? どういう意味だよ』 「そのままさ。殺しの善悪など論ずるだけ無駄だよ。一人殺せば殺人鬼でも、千人殺せば英雄になれる。そもそも全ての人間は、他の生き物を喰らうことで命を繋いでいるんだ。――だがね」  皮肉げに肩を竦め、そこで薔子さんは息継ぎを挟んだ。 「生きようとする意思を無視して、その者の命を刈り取ることは罪だと私は思う。殺すために生きるも、生きるために殺すも等しく罪だ。君のその手についた血は、君が死ぬまで背負うべき十字架だろうよ」 『……はん。つまり何か? 理由があったら人殺しも仕方ないって、あんたは言いたいのかよ?』 「そうだ」 『は?』 「私は君の(おこな)いを否定しない。生きる意思を否定するなど、何人にも出来る筈がないからだ。だが一方で、人を殺すことは罪になる。この二つは両立すると思う」  要するに、殺人は否定するけど、生きるためという『目的』の部分は否定しないという意味だろう。  生きる意思。何ヶ月前かの夏祭りの夜、子供を失い自殺しようとした女性を諭す時にも、薔子さんは同じ言葉を使っていた。テリーに語りかける姿を見て、それをふと思い出す。 「生きる意思があるのなら生きるしかない。殺しが唯一の生きる(すべ)なら、殺すしかないんだよ」  倫理的にはよろしくない発言に、ビショップ警部は眉をしかめたけど、テリーは逆に毒気を抜かれたようだった。反論は無く、噛み付きもせず、ただ無言で首を縦に振る。そのままベロニカさんの顔を見て、 「さよなら。好きだよ(I miss you)姐さん(love)これまでもずっと(I always have)」  涙混じりに告げると、返事を待たずにパトカーへと乗り込んだ。
/34ページ

最初のコメントを投稿しよう!