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道具を片付けて家の中に戻ると、ベロニカさんがタオルを片手に現れた。
「お疲れ様です。すみません、お客様に手伝わせてしまい……」
「結構楽しかったんで大丈夫ですよ」
「でしたら良いのですが」
タオルの一つを僕に渡すと、ベロニカさんは薔子さんの汗を拭きにかかった。
「いいですか薔子さま。こうやって毎シーズン買い漁るから、植木鉢が際限なく増えていくのですよ。我が家のスペースは枯渇しつつあります。お忘れなきよう」
「まだフラワーパークが空いている。最悪、隣にお裾分けすれば」
「ダメです。そういう問題ではございません」
なんか密着してて、距離が近すぎる気もするけど、親しい女の子同士ってこんなもんなんだろうか。よく分からない。
いつもの応接間に入ると、薔子さんの愛猫グレートブリテンが昼寝から目覚め、「また貴様か」とでも言いたげな目で僕を一瞥してきた。プライドの高さにステータスを全振りしたこの猫も、最近は少しずつ僕に懐いてきて、なんとこの前は背中を撫でても怒らなかった! 千里の道も一歩からだ。
ベロニカさんが淹れてくれたアイスティーはやっぱり美味しくて、火照った身体に染み渡っていくかのようだった。アクセントとして添えられたレモンの風味が、これまた爽快だ。
「美味しい一杯を嗜みたいのであれば、氷の投入を躊躇ってはなりません。紅茶と同等の量を用意し、物量戦術でしっかりと冷やす。これが肝心です」
「ベロニカさん、英国淑女って感じですね」
「ええ、曲がりなりにも、霧の都出身でございますから」
何を隠そう、ベロニカさんは元・ロンドンの孤児。十年前に薔子さんと出会って、そこで拾われたというシンデレラみたいな生い立ちを持つ人だ。
「ロンドンか……」
「興味がおありですか?」
「言葉に出来ない憧れみたいなのがあって、死ぬまでに一度は行きたいんですよね。……あ、紅茶、ごちそうさまでした。最高です」
「ありがとうございます。粗茶ですが」
謙遜するベロニカさんだけど、表情は嬉しそうだった。こんな顔されたら、いくらでもお礼を言いたくなるというものだ。
「僕も家で紅茶を飲むんですけど、ベロニカさんみたいに美味しくならないんですよね。テクニックとかあるんですか?」
「ございますよ。よければ日を改めて、色々と伝授いたします」
「いいんですか!? お願いします!」
ありがとうベロニカさん。いや、先生! ベロニカ先生!
「……ところで薔子さま。例の車ですが」
茶菓子のビスケットに舌鼓を打っていると、ベロニカさんが何やら不安そうな様子で、薔子さんの耳元に口を寄せた。
「ああ、またか」
「またでございます」
「場所は?」
「監視カメラの死角に。いかがしましょう」
「放っておけ。相手の意図が分からないし、私たちとは無関係の可能性もある」
何の話だろう? 部外者の僕が聞いていい内容なのかな。
「車なら、さっきも門の近くに停まってましたけど。黒くて、スモークガラスで中が見えないやつ」
「それだ。最近よく見掛けるんだよ。近隣住民の物ではないと思うのだがね、念のため警戒しているのだ」
薔子さんがそう言って腕を組む。不審者ならぬ不審車というやつか。素性が分からないのは確かに不気味だ。ナンバープレートとか見とけば良かった。
「伊吹さまもお気を付けくださいませ」
「あ、はい。……でも、大丈夫じゃないですかね。男だし」
「犯罪者にとって女性が狙い目なのは事実ですが、条件さえ揃えば男性も標的たり得ます。油断大敵、でございますよ」
頭では理解してるんだけど、実際に狙われたことが無いからどうにも想像がつかない。ひったくりとか、痴漢とか、そういう軽微な犯罪でさえ、どこか遠くの見知らぬ場所で起きている出来事のように思えてしまう。有り体に言えば、他人事のように。
「この国の人間はおしなべて平和ボケしている。青年も例外ではなかったようだ」
辛口ですね薔子さん。
「まあ、ボケれるくらいには治安が維持されているということで、あながち悪い指標とも言えないのだがね」
女性が一人で夜道を歩ける国は、そう多くない。日本に生きてると実感出来ないけど、日本に生まれただけで、世界的に見れば勝ち組の部類に入るのだろう。
ベロニカさんとか、初めて日本に来たとき何を思ったんだろうか。
「……あ、そうだ」
大切なことをついぞ忘れていた。今日は薔子さんに渡す物があるんだった。
「はい、薔子さん」
「これは?」
「プレゼントです。誕生日、今日でしたよね? 大したものじゃないですけど、よかったら」
ラッピングされた袋をカバンから取り出して渡す。薔子さんは両手でそれを受け取ると、まず表を眺め、次にひっくり返し、猫みたいに匂いを嗅いだあと、興味深げに目を細めた。
「開けてもいいか?」
「どうぞ」
「……ほう、ハンカチか! しかも青バラの柄とはな」
薔子さんの顔がパッと綻ぶ。よかった、気に入ってくれたみたいだ。
「薔子さんって言ったら、やっぱバラの花かなって思ったんですよ。それにせっかくなら、赤でも黒でもなくて青がいいかなって。薔子さんの目も、綺麗な青色してますし」
市内を駆けずり回ってようやく入手した代物だ。赤と黒はあるのに青が無い。そんなパターンばかりで、もう赤にしようかと本気で諦めかけたほどである。
「くくっ……ははははは!」
と、そこで薔子さんは唐突に笑い出した。
「そうか。青か! 目玉が青いからな。当然の帰結だ」
「……もしかして外してました?」
「いいや、ストライクド真ん中だよ。ただ単に、私の瞳が綺麗だと言われて、それが随分と珍しく感じただけさ」
「珍しい?」
「ああ。母方の祖父と父方の祖母がイギリス人でね。この青は、彼らから隔世遺伝で受け継がれた物だ。だが、私の顔は日本人のそれだろう? 東洋の顔に西洋の瞳。日本と欧州のどちらにも属せない混ざりもの。歪な代物さ」
そこまで言わなくても……。確かに少数派だろうけど、裏を返せばそれは個性的って意味だ。良いことじゃないか。
「特異性っていうのはね、個性としてもてはやされることもあれば、異物として迫害の対象になることもある。それを決めるのは、当人が集団の中でどれだけ好かれているかだ。私のことを好く人間は、残念ながらあまりいなかった。中学校までは特にね」
ひょいと肩を竦めて、薔子さんは紅茶を一口啜った。
「ともあれ、ありがとう。大切に使わせてもらうよ」
自嘲気味に微笑んで、ハンカチを優しく畳み直す。湿っぽい空気になったけど、喜んでもらえて何よりだ。探し回った甲斐があった。
「青年の誕生日はいつだ?」
「え? 三月二日ですけど」
「なるほど。覚えておこう」
その後はしばらくゆっくりさせてもらって、あろうことか昼ご飯までご馳走になった。さすがメイドと言うべきか、ベロニカさんの魚料理は舌が落ちるほど美味しかった。僕も自炊はするけれど、ここまでの味は作れる気がしない。紅茶以外にも色々と教えて欲しい。
薔子さんが押し入れから人生ゲームを引っ張り出してきたので、帰宅の時間は三度延長され、その日は結局夕方まで居座ってしまった。帰るときに門の前を確かめてみたけど、朝にいた黒の自動車は、いつの間にか姿を消していた。
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