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川は境界だと言われる。
国と国の境。県と県の境。村と村の境。絶えることのない水の流れは、人間の社会を物理的に隔ててきた。
芦田川も同じだ。川の東は市の中心部。そこそこ高いビルがあり、新幹線の停まる駅があり、道路は広い。対する西側は寂れていて、明王台という団地と国道二号線沿いを除けば、基本的に自然豊かだ。市の中心部では見られない、田んぼや畑を拝むことが出来る。一部は放棄されて草むらになっている。
そんな芦田川は、周辺の人口に比して流量が少なく、水質が悪いのが特徴だ。ヘドロ揺蕩う死の川ってほどじゃないし、下水処理場は血の滲むような努力を続けているんだけど、やっぱり汚い。だけど夜なら、綺麗だろうが汚かろうが分かりっこない。
八月十五日。お盆最終日。昨日まで実家に帰省していた僕は、花火大会のため福山に戻ってきていた。
薔子さんとの待ち合わせ場所に指定した、草戸稲荷神社の鳥居の前で待っていると、あらかじめ決めた時間ピッタリに、薔子さんがやって来た。
「やあ。君の遅刻癖は治ったようだね」
失礼な。遅刻したのだって、ばら祭の時だけですよ――そう抗議しかけて、でも出来なかった。
見惚れてしまったからだ。
普段と違って、今夜の薔子さんはダークグリーンの浴衣に身を包んでいた。まるで名家の大和撫子みたいで、ただでさえズバ抜けてる凜々しさと美しさが、これ以上ないくらいに引き立てられていた。その姿に胸がときめくと同時に、僕は彼女を、とても遠い存在のように感じた。
ありきたりな言い方をするなら、まるで高嶺の花のように。
「何を呆けているんだ?」
「めっ……っちゃ似合ってますね」
「この浴衣か? ベロニカに無理矢理着せられたんだ。祭は浴衣で行くものです! と暴論を押し付けられてね。いつもの服の方が歩きやすいのだと、私は繰り返し主張したのだがね……」
ありがとうベロニカさん。あなたはどこまで有能なのか。
「浴衣で良かったと思いますよ。お祭り感出ますし、それに、その、綺麗です」
「まあ、今さら着替えることも叶わんからな。……おお、これは」
僕の言葉をサラリとスルーした薔子さんは、鳥居の横に植えられた木に手を伸ばすと、葉っぱを毟って唐突にキスをした。
「知ってるか青年。この木はダンコウバイと言ってね。こうやって葉を揉むと、良い香りがするんだ」
「そうなんですか? ……ホントだ、なんか微かに、爽やかな感じが」
見かけは何の変哲もない、言っちゃ悪いけど地味そうな木だけど、顔を寄せてみると薔子さんの言ったとおり、フワッとした香りが僕の鼻をくすぐった。
「花が綺麗な木なのだが、さすがにもう残っていないようだね。『私を見つけて』などというロマンチックな花言葉まであって、それだけで小一時間は語れるのに、大変残念だ。ああ、ちなみにダンコウを漢字で書くと、木へんの檀に香りと書いて『檀香』となる。これは、かのビャクダンの漢名なのだね」
「ビャクダン?」
「仏具に用いられる材木の名前さ。線香の原料なんかになっている」
「ああ、彼岸の香りですか」
「君はなかなか洒落た表現をするな。お盆と絡めたつもりだったのだが」
たしかにタイムリーな話題だ。
目の前を行き交う大勢の人たちを眺めながら、僕はふと呟く。
「お盆は亡くなった人が帰ってくる日って言いますけど、この人混みの中じゃ、幽霊とか妖怪が混ざってても気付きそうにないですね」
たとえ僕の姉さんが帰って来てても……いかんいかん、思考が湿っぽくなってしまった。この前墓参りに行ったからか、死という言葉が妙に身近に感じてしまう。
「あの世のモノは善人に寄り付くと聞く。青年も用心したまえ」
「そっちこそ気を付けた方がいいんじゃないんですか?」
「その心配は無いよ。私が怪異なら、もっと騙しやすそうな人間を頼るからね」
言われてみれば。薔子さんなら騙されないどころか、悪魔だって逆に騙してしまうだろう。
「……それにしても、晴れて良かったな」
空を見上げて薔子さんが目を細める。天気予報では雨のち曇りで、六時くらいまで雲がかかっていた。今は幸いにも日の光が拝める。どっちにしろもうすぐ暗くなるけど。
「行こうか、青年。まだ花火が上がるまでは時間がある」
「何か食べたいんですね? せっかくだし屋台見て回りましょう」
誰かとお祭に行くこと自体、ここ数年は縁が無かったので、どこか不思議な気分だ。芦田川の護岸にはたくさんの屋台が並んでいて、美味しいもの大好きな薔子さんはたちまち目を輝かせ始めた。この後の展開が容易に想像出来て、僕はお腹を空かせてきて正解だと思った。
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