プロローグ

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プロローグ

 福山の夏は雨が少ない。  夏だけじゃなくて、春も秋も冬も少ないんだけど、太陽ガン照りの七月から八月にかけては、とりわけ雨の少なさが恨めしくなる。中途半端に夕立が降るから、湿度だけ上がって地獄度合いが増す。気温は下がらないくせに。そうでなくても瀬戸内海があるから、夏の福山は基本的に蒸し暑い。  早朝と夕方は、多少マシになる。  外で活動したいなら、涼しい時間を選ぶようにした方が良い。  だけど『彼女』は、昼でも構わず屋外にいる。  福山市木之庄(きのしょう)の坂を登っていくと、周りを(つる)バラの柵に囲まれた、お洒落なお庭と木造の二階建てが見えてくる。イギリスの田舎にポツンとありそうなこの空間こそが、草花をこよなく愛する女性――(いばら)薔子(しょうこ)さんの住処だ。  薔子さんと知り合って、二ヶ月と少し。毎週土曜日になると、僕は彼女の家へ遊びに行く。最初は向こうから呼び出しがあったんだけど、最近では習慣付いてしまって、連絡が無くても行くのが当たり前になってきた。彼女もまた、当たり前のように出迎えてくれる。  好きな花について薔子さんが目をキラキラさせて語る、それを聞く時間が僕は大好きだ。花のように無邪気な彼女の笑顔に、僕はときめきの何たるかを教えてもらった。 「あれ、あんな車あったっけ……」  薔子さんの家に着くと、門から少し離れた場所に黒の乗用車が停まっていた。見慣れない車だ。薔子さんのファントムとは違う。スモークガラスで車内の様子は分からない。  誰のだろうと思いつつ、自転車を停めて呼び鈴を鳴らす。メイドのベロニカさんが出てきて、薔子さんは庭にいると教えてくれた。砂利の道を歩いて敷地の奥へ向かえば、立派なヤマモモの木の下に彼女はいて、声をかけた僕を、花の咲いたような笑顔で出迎えてくれた。 「よく来たね。今日は奴隷になってもらおうと思うんだ」 「奴隷?」 「ああ。私一人では量が多くてね」  そう言って足下を指し示す。そこに置かれているのは、『花と野菜の土』と書かれた培養土の袋。大量のプランター。無数のビニールポット。スコップ。ゴム手袋。いかにも今から園芸しますよと言わんばかりの品々。  七月二十三日、朝の九時。そろそろお外から撤退したくなる頃だが、そうもいかないらしい。 「植え替えだ。本来なら、夏の盛りにすべきではないのだがね。ビニールポットでは育つものも育たないから、やむなくだ」 「これ全部、薔子さんが買ってきたんですか?」 「ついさっき、近所のホームセンターでね」 「なんでまたこんな大量に……。しかも何ていうか、どれも弱ってません?」  茎が伸びすぎていたり、花が咲き終わりそうだったり。売れ残った感がひしひしと伝わってくる。木陰に並ぶのはそんな花ばかりだ。  他に無かったんですかと訊いた僕に対して、チッチッチ、と薔子さんが舌を鳴らした。 「分かってないな。だからこそ私が買わねばならないんだよ。さもなくばこの子たちは、ホームセンターの資本主義的経営方針の下で廃棄されるか、枯れるまで放置されて無惨な最期を迎えることとなる。いかに劣悪な環境であれ、彼らは健気に、ひたむきに、置かれた場所で咲こうとしている筈なのだがね」  そう言って、薔子さんはポットの一つを持ち上げ、植えられた花にキスをした。  要するに放っておけなかったんだろう。喋り方に棘のある人だけど、中身が悪人なわけじゃないのだ。 「にしても結構な量ですね。植え替えなんてするの初めてなんですけど」 「難しくないよ。私が教える。ベロニカがアイスティーを用意しているから、終わったらティータイムといこう」 「ベロニカさんの紅茶! あれ美味しいんですよね! 俄然やる気が出てきました」  水色のゴム手袋を填め、僕たちは作業に取り掛かった。  ホームセンターでは普通、草花はビニールポットに入って売られている。そのままだと、花が新たに根を張るスペースが無いので、より大きな容器に移し替える必要があるわけだ。  株の根元を指で挟み、ポットを逆さまにひっくり返すと、白い根がビッシリ詰まった土の塊が出て来る。そのままプランターへお引っ越し……する前に一手順。固まった根っこを手で軽くほぐしてやる。新しい土に馴染みやすくするためだ。  最後にじょうろで水をかけ、植え替え終了。貧相だった花たちも、多少は元気を取り戻したように見える。後はこれの繰り返し。  植え替えの終わった花は、直射日光の当たらない木陰でしばらく育てるんだそうだ。いきなり真夏の殺人光線に晒したら、ただでさえ弱っている株がダメージを受ける。なるほど。人間と一緒だ。  薔子さんの言ったとおり難しい作業じゃないけど、とにかく量が多い。全部の花を植え替え終わった頃には、僕たちはすっかり汗だくになっていた。
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