眠る女

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 車でしばらく走らなければ町らしい施設にお目にかかれない閑静な、それ以外に取り立てて何の自慢も無い田舎の町。住む人は穏やかで優しかった。採れた野菜などを分けてもらえることもしばしばあった。  彼がこの町に移り住んだ理由は家賃が安かったこと。住民は減り空き家が多かったのだ。  彼は写真家だった。北岡という名の30代前半の男だった。  彼は写真家と名乗っていたが、この町に住んで、この町の写真を撮りたいわけではない。だからといって町民とあからさまに疎遠にしていたわけでも無く、道で会えばあいさつや世間話くらいはした。たまには頼まれて町の人の写真を撮ることもあったが町の写真館を開いたわけではない。山あいに沈む美しい夕日も、朝靄に包まれる幻想的な森も彼の興味の対象では無かった。彼は人物の、それも女の写真を撮りたい。それも都会的な。そして、それで成功を手に入れたいと願っていた。その野望を実現するための拠点としてここにやって来たのだった。廃屋同然の家を借りて自分で改造し、暗室やスタジオもどきも作った。準備は出来ている。  一心に自分の感性を追求してきたが、それが世間に認められる人間は一握りだ。彼はその一握りの人間になれるとずっと信じていた。自分こそ、といつも口に出してまで鼓舞するように言っていた。それは独り言であるから、知らない人から見れば少し変わった感じに映ったし、何を言っているのかと言うのが分かれば、それはそれで空虚な自信感情を念仏のように唱えているのが哀感さえ誘ったし、そういう行動を怖いと思う人もいた。  けれど自分の思う写真を撮っているだけで生活できるほどには名は売れていない。それどころか、これまで自分の作品としての写真はほぼ売れたためしがない。 「くそっ」  収入のほとんどは小さな雑誌や広告のためのちょっとした写真の依頼で賄っていた。  独り生活するのにギリギリで、あとはとにかく「自分の写真表現」のためにあらゆる試行錯誤をしていた。その中に、満足のいくものを見いだしたいと常々思いながら、もう10年近くをこの世界で過ごして来た。  試行錯誤の甲斐があって、そんな彼にある夜、思わぬインスピレーションを与える出来事が起きた。失神しそうな衝撃だった。彼はモデルの表情が変わってしまうのを恐れるように、 「その表情だよ。それ待ってたんだ!」  表情が消えてしまう前に必死に撮影しておこうというように許すかぎりの数、カメラのシャッター切っていた。 「やっと、思うようなものが撮れた」  シャッターを切る間、そう思っていたし。彼の想像は当たっていた。現像した写真を見て満足に独り微笑んだ。今までの写真とは、それは別物だった。これは彼にとって突破口になった。何かを掴んだと初めて思えた。 「まだ1作品。これじゃ足りない。個展を開けるくらいの数を揃えてから売り込みに行きたい」  手応えを感じた彼の鼻息は荒くなった。これで今まで自分を相手にしていなかった画商も見返せると感じた。「あの、丁寧な皮肉っぽいヤツ」をだ。 「俺はこれで成功できるはずだ。けれど、ユミには苦労を掛けたのに……残念だ」  ユミは彼の妻だ。彼が自分の写真にもがき苦しむ10年をずっと支えて来た。だが、今はもういない。  北岡は車を走らせた。街に出てモデルになってくれる女性を探すのだ。モデル相手に自分の写真家としての力をぶつけてみたくてうずいた。  彼にプロのモデルを雇う金は無い。街で女性を口説いて、家に連れて行き、自分の家にしつらえたスタジオもどきで撮影をする。これも写真家として名をなすまでの我慢だ。幸い、彼は、長身で色浅黒く精悍とも見えるし多少病弱という感じもする。一見して女性の目を引く容貌だった。これが元で妻のユミと一悶着起きたこともあった。  モデルはかわいいと言うより、大人の色気のある、唇がハッキリした顔立ちが彼の好みだった。  そう簡単にモデルに出来るほどの女性を口説けることは無かったが、彼にはそれを補う腕が備わったのだった。写真に対する必死さよりも自然に女性を物色する目にのめり込んでいるようだった。彼は、自分の家を拠点に八方の街に出向いては候補の女性に声を掛けていた。中には、写真など関係なく、北岡に惚れてついて来る女性もいた。写真撮影が二の次になることもあった。  それでも、修練とは恐ろしいもので、そのうち彼の撮影は順調になった。このチャンスを逃さないよう、彼は夜も日も明けずモデルを物色し、家のスタジオで作品を作り続けた。作品は見事に思惑通りの出来を示すときもあったし、そうで無く落胆させるときもあったが、数をこなすうちにその努力も実を結ぼうとしていた。  北岡はついに個展開催にこぎ着けた。ずっと自分の作品に鼻も引っかけなかった画商が目を輝かせた。 「どうしたんだい。急によくなったよキミ」  画商が興奮気味に声を発し、すぐにも話がまとまり開かれた個展が盛況で、毎日会場へ通って仕事をしていた。主に夕方から夜にかけて人と会うことが多く、遅く帰って寝たばかりだった。  午前10時だった。北岡の家の前に1台の車が停まり、それを降りて来た二人の刑事が訪ねて来た。  細い木枠の引き戸が開いた。男の太い通る声が家の奥まで聞こえただろう。 「北岡健二さんですね?市警本部の風戸といいますが」そう言ったのが年かさの刑事だった。横にもう一人少し若い刑事が伴っていた。  外は曇っていたがそれでも彼には眩しかった。北岡は少し伸びてだらしのないジャージの上下を着ていて、家の中も雑然としていた。 「伺いたいことがありまして。入ってもいいですか?」  北岡は不承不承同意して刑事二人を中に入れた。  北岡は写真のモデルにしたことが表沙汰になって、誰かに訴えられたのかと思った。彼は女性に、モデルにと口説いたあと、この家に連れ込む前にクスリを使って眠らせていた。同意のこともあった。その後写真を撮って、女は別の所へ連れて行って解放していたのだ。その点で北岡は、手落ちは無かったはずと思っていた。この家のことや北岡のことを正確に覚えている女がいたのだろうか。それにここ最近は、全て同意の上でのことだったと記憶していた。そして彼は女から金を巻き上げるわけでも無ければレイプするわけでもない。写真を撮っているだけだった。 「私になんなのでしょう?」  北岡は薄らとぼけて、前に出ている年かさの方の刑事に言った。 「北岡さんは写真家だそうで」  家の見た目は田舎の古い木造住宅だが、部屋の中は写真が壁に貼られていたり、机の上の物も、生活感のあるものより仕事場という感じを与えた。 「ええ。今、個展をやっているんです」  北岡はめんどうそうに刑事たちに長いすを勧め、自分は木の椅子を持ち出して腰掛けた。  長いすに座った年かさの刑事は、少し口元に微笑みを浮かべた。 「私も写真が好きでして。自分ではなかなかいい写真は撮れないんですが、見るのが好きなんです」 「ほぉ。いいご趣味です」  北岡は営業で身につけたことばを口に出した。だが、そういう気の入らない口ぶりには刑事も慣れていた。 「私、写真展にも暇を見て行くんですよ……実は北岡さんの個展にも行きました。『眠る女』っていうテーマで評判がいいのを聞きまして。写真が実に素晴らしい。あんな表情で眠る女性を私は見たことがありません。夢見るような表情っていうか、幻想的というか。私みたいな無骨な人間には、簡単にことばで表せない」  刑事は少し身を乗り出して北岡に、自分の営業トークを披露した。北岡は、むしろ自分の方がこんなに褒めそやされることになれていなかったので、この写真展が始まってからと言うもの、持ち上げられていい気になっていた。 「どうやるとモデルからあんな表情を引き出せるのでしょう?」  刑事のことばは軽かったが、北岡は一瞬言葉に詰まった。 「……いやあ。長い時間を掛けて身につけて、やっと実現したんです。マジシャンがタネを聞かれて、教えないのと同じですよ。言えませんよ。それより、私にどんな要件ですか?」  ここで年かさの刑事は急速に表情を引き締めた。 「まあ、あなたのマジックのタネは、大体想像がつくのですが……それはのちのち確かめるとして。あの写真展の写真です。私もこの道25年になります。……写真が好きと言いましたが、仕事の関係で、アートとは無関係の写真もずいぶん見てきました。そう。事件の被害者の写真です。……それで気づいたんです。あなたの写真展の中の1枚……1枚目の展示写真です……あの女性は横顔でしたが、あれはアートじゃ無いと思いました。見てすぐこの女性は亡くなっている、と直感しました。妙な眼力というか……身についたんですね、私も。……それで聞き込みをしたのですが、あの写真はあなたの奥さんのユミさんですね。そして奥さん、ここのところ姿が見えないとか。どこにいらっしゃるんでしょうか?」 「ユミは、ちょっとした喧嘩をしてね。家出をしてるんだ。きっと友達の所を泊まり歩いてるんだと思いますよ。僕はモデルの女性と親しそうに見えるから……そういうことはたまにあるんだ」  北岡はベテラン刑事の矢継ぎ早の逃げ道を閉ざす質問にいくつか言い訳をしたが、用意していなかった弁明はすぐに辻褄の合わぬことを見抜かれ、真相を白状した。 「もうほとんど成功を手に入れていたのに……なんてことだ。ユミの写真を出展するのを止めておけばよかったよ」  彼はうつむいた。刑事は北岡に語りかけるように一語一語丁寧に話した。 「でも、あの写真展で一番の作品はユミさんを撮った写真だと思いましたよ。あの作品は、ほかと違う魅力をたたえていました……あの写真以外は、悪くは無いが案外平凡だったと思いますね。それは、私みたいな職業の人間だから感じるある種の魂とでも言うんでしょうかねえ」 「あんたが一番、見る目があったと言うことか」  北岡は、刑事の顔を悔しそうに見つめた。  北岡はモデルの女性を探すうちに『眠る女』というテーマを思いついて、クスリで眠らせてしまおうと考えた。しかも、表情よく眠って欲しいと考え、そのために自分で手に入れたクスリを調合して手始めに妻ユミと試していた。だが、そのようなことを試していたとき、ユミが中毒症状を起こして死んでしまったのだ。その時のユミの表情は実に素晴らしく、彼はそれを写真に撮った。ユミの遺体は家裏の藪に埋め、クスリの成果を手に入れたのだった。  北岡は制服警官に連れられ家を出た。少しの間、どうせすぐに崩れる夢を見たが、結局はしょぼくれた姿でそれ以上にはならなかった。その後ろ姿を刑事たちが見送った。  若い方の刑事が言った。 「素晴らしいアートの写真も、これで証拠写真に早変わりして、お蔵入りですか」 「花ひらいた才能が、写真じゃなくクスリの調合じゃあナァ」  この花は見事にひらいたが陽は当たらないらしい。
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