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4 意見の相違
「薫さん、ちょっといい?」
わたしは問いかけを無視した。同棲しているからといって、いつでも伴侶のプライベートを妨害してよいなどと思ったら大まちがいである。今夜こそそれをわからせてやらねばなるまい。
「薫さん?」耳を引っ張られ、怒鳴られた。「おーい、聞こえてますかー!」
人間諦めが肝心である。読んでいた本を閉じ、かぶりを振った。「なんでございましょうかね、桃香どの」
「あたしたちの将来のこと、話し合いたいんです」
わたしはまじまじと相手の顔を見返した。冗談を言っているような気配は見られない。
「いきなりどうしたね、将来もなにもこのまま暮らしてくんじゃないのか」
「で、お互い相手に飽きたらそれでおしまい。法的な結婚は時代遅れ、ナウでヤングな新人類は事実婚でいくのがイケてる。そういうこと? 薫さんもそれがいいって思ってるの?」
「なにムキになってんだよ。それ以外に選択肢があるのか」
沈黙が下りた。伴侶は立ち上がって窓際へ歩いていき、じっとカーテンを見つめている。「……薫さんは孵化器をどう思ってるの」
「なんとも思わんよ」不満そうだったのでつけ加えた。「どうもよくわからんな。なにか特定の感情を抱かなきゃいかんのか?」
「こないだやった精子提供はどうなの。楽しかったわけ?」
「楽しいとか楽しくないとか、そういうことじゃないだろうが。単なる義務の履行だよ」
「義務の履行。そうでしょうよ。それをいいことに薫さんは、どこの誰とも知らない女の卵子を受精させてるんですよ」
「ぼくがじゃない。行政がそうしてるんだ」
「だったら提供しなきゃいいじゃないの、エロ動画見ながらオナホに突っ込んで腰振るのが楽しいならべつだけど」
「なあ桃香、いくらパートナーだからって言っていいことと悪いことがあるんじゃないのか」
カーテンを見つめる作業に飽きたらしい彼女は、剣道有段者も真っ青の足さばきで間合いを詰めてきた。「話逸らしてますよ。提供しなきゃいいのにってあたしは言ったの」
「そんなまねしてみろ、城島さんに殺される」
「あんなボンクラ、がつんと言ってやればいいじゃないですか!」
われわれはしばし睨み合った。次第にバカらしくなってきて、怒りは急速に冷めていった。「……それで、結局どうしたいんだ」
「あたし、薫さんの子どもを産みたい」
この台詞で確信した。彼女はどういうわけか、トチ狂ってしまったのだ。あまりの衝撃的発言に二の句が継げない。
「結婚して――ちゃんと婚姻届を出して、体外受精で子どもを作るの。孵化器に産ませるんじゃなくて、あたしの子宮で育てるの。素敵じゃないですか?」
「とても本気で言ってるとは思えない。冗談なんだよな」
「あたしは大まじめです」
「メリットがない。手厚い手当は支給されるらしいけど、子どもを持つなんてコスト的に見合わない。それくらいわかるだろう」
「そもそも費用便益分析をするような問題じゃないんですよ。薫さんはなんにもわかってない」
ご指摘の通り、わたしはなにもわかっていなかった。
おそらく今後も理解することはないだろう。彼女の言っていたことの意味がなんであれ。
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