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1 花粉媒介者の憂鬱
なにげなくアパートの集合ポストを開けると、中身が雪崩のごとく吐き出されてきた。面倒くささが勝って数週間に一度しか開けないツケが回ってきたのだ。
こうした惨劇に直面するたび、毎度今度からはこまめに中身を回収しようと誓うのだが、この顛末である。こればかりは桃香も同意見らしく、面倒くさがってやらないのだった。
悪態を吐きながら種々雑多な紙束を拾い集め、2階の角部屋にある自室に入るなりベッドの上にぶちまけた。例によって例のごとく、九分九厘はダイレクトメールやら共済保険の案内やら水道代の請求書やらの紙くずである。
そのなかに召集令状があるのを目撃し、わたしはいよいよ陰鬱な気分になってきた。もうそんな季節らしい。端末で開花情報を検索。日本列島を彩る「15歳」の文字。今年も各地で15歳女子たちが満開である由。少子化対策ばんざいだ。
赤紙を放り出して買ってきた冷凍食品にありついていると、市内放送が唐突に始まった。間の抜けたチャイムが鳴り響き、これから行政がありがたいご宣託を下すぞと予告している。勘弁してくれ、夜の9時半だぞ……。
「今年もこの季節がやってまいりました。市内にお住いの生殖年齢範囲内のみなさまにおかれましては、送達いたしました細胞提供案内に記載のクリニックへお越しいただき、ぜひとも権利を行使していただきたいと思います」
こんな公共ポルノまがいの放送がこれから数週間毎日毎晩くり返されるのである。わたしはこの無機質な放送音声になにかしら、クリニックへと聴取者をいざなうサブリミナル的な仕掛けがあるのではないかと本気で疑い始めている。
今年も15歳女子たちは満開、20歳女子たちは九分咲き、30歳女性たちは八分咲き。40歳以降は推して知るべし。まあそういうものだ。
翌日、気乗りしないまま指定クリニックにいってみると、例によって長蛇の列である。完全予約制であるにもかかわらずだ。きっと行政の非効率性の象徴として後世の歴史家に記録されるのだろう。
「桐谷さん、桐谷薫さん。7号診療室へお越しください」
7号診療室では陰鬱な表情を隠そうともしない若造の医師が待ち構えていた。ひどい猫背で、首の突きだし具合などはまるっきり斬首を待つ切腹武士のようだ。「どうぞ、かけて」
「よろしくお願いします」
「体調は」尋ねているというよりほとんど独り言に近い。
「良好です」
「単一遺伝子疾患は」
彼はどう高く見積もっても30歳以下、ピチピチのレジデントにしか見えない。いっぽうこちとら成熟した34歳の壮健たる快男児である。もう少し口の利きかたをどうにかできないものか……。
「知る限り、ないと思います」
「書類上は問題ないね」のっそりと立ち上がり、あごをしゃくった。「あちらで採取。なにかわからないことは」
お前の態度の悪さだよ。危ういところで飲み込んだ。「ありません」
採取室ほど気の滅入る場所はない。
3メートル四方の極小スペースに先人たちの放出したたんぱく質のにおいが漂い、壁には種々雑多な採取ホール――ぶっちゃけて言えばオナホール――が突き出している。いちいち圧の強さやら入れ心地やらの注意書きがあくまで事務的な調子で書かれており、ユーザーフレンドリーなことおびただしい。
備えつけのタブレットを起動し、適当な動画を物色する。まことにありがたいことに、海外にサーバーを持つ無修正サイトに月額会員として入会していただいているので、選択肢には困らない(日本国はいまや、税金をエロ動画視聴に充てているのだ)。
わたしは義務を果たすべく、13分にもわたって壁相手にむなしく腰を振り続けた。徒労感に負けそうになったころ、ようやくBユニットへわが分身たちをぶちまける任務を完遂した。
倦怠感に包まれて採取室を出たとき、廊下の向こうからやってくる若い看護師と目が合った。彼女は立ち止まり、ぺこりと一礼する。「お疲れさまでした」
わざわざ休日に出かけていって、オナニーさせられたあげくに若い娘から嘲笑混じりにねぎらわれる。嗚呼すばらしきかな、人生!
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