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とある施設で一人の老人が亡くなった。原因は老衰であり、人生を全うした最後であったといえるだろう。その老人は職員からの評判も良い人物であった。人柄がよくいつもニコニコしていて、嫌みを言うような事は一切無かった。嫌いになる人はいない、そんな性格であった。
「あのおじいさん、最後まで悪魔の顔を教えてくれなかったな。」
老人を看取った看護師と話しているうちに職員の男はふと思い出していた。
「確かによく言ってたね。確かこういう風に、少し笑いながら言うんだよね。」
看護師は仕事をそつなくこなしながら話を続けた。
「『私は悪魔の顔を見たことがある。どんな顔だったと思う?』って感じ。私も何度聞かれたことか、すこし認知症が始まってたのかな。」
これはどの職員も聞いたことのある内容だった。
『恐ろしい顔?』
『羊の頭みたいな?』
『その人が一番恐ろしいと思う顔とか?』
聞かれた職員は想像で答えるが、老人は『私が最後に見た悪魔の顔はそんなのじゃなかったよ。』と微笑みながら言うだけだった。
「あの人、若い頃は画家さんだったんだって。だから一度だけ悪魔の顔を描いてもらったんだけど。」
職員の男はポケットからメモ帳を取り出し、間に挟まれていた一枚の紙を広げて見せた。
「なにこれ?」
看護師が疑問に思うのも無理はない。そこには昔画家だったという人物が描くとは思えない顔。丸が一つに横線だけの目と口、髪の毛や耳もなくとてもシンプル。保育園児でももう少し上手に描けるのではと思うぐらいの絵であった。
「これを一日がかりで描いてくれたんだ。」
職員の男は再び絵を丁寧に折り畳み、ノートに挟み込んだ。
「本当に画家だったのかな?」
看護師は少し愛嬌のある笑いをし、老人の顔を思い出していた。
実際、その老人は本当に画家だった。若い頃は貧乏で、その日を食べていくのがやっとの日々。知人の経営するボロアパートで細々と生活していた。
毎日毎日売れない絵を描き続けていたある日、真っ白なキャンパス上に現れたのは筋骨隆々な一人の男性。ワンショルダーの白い衣服を着て、頭には茨の冠を被っていた。
『お前には絵の才能がある。しかしその才能を開花させるのには途方もない時間がかかるだろう。しかしお前が望むなら、私の力でその才能を急速に成長させる事も可能だ。』
声は直接頭の中に響いていた、画家は即答する。
「ああ、神様お願いします。私はここまで自分を自由にさせてくれた両親にお礼をしたい。このアパートを経営している知人にも迷惑をかけてきた。私が生きているうちに、なんとしても画家として成功したいんだ!」
キャンパス上の男はニコリと笑う。
『ならば契約は成立だ。その蕾にも満たない画家としての才能を急速に成長させ、立派な花として開かせてやろう。』
その言葉を最後に男の姿が消え、真っ白なキャンパスのみが残された。
その後の画家はめまぐるしい成長を遂げた。
あの出来事の後に描いた絵は名誉ある賞を取り、そしてその絵には数千万の値が付いた。男は早速、両親と知人に恩を返し。残ったお金で新たなアトリエを買った。
その後も彼の評価は上っていくばかりであった。彼が絵を描けばそれは瞬く間に話題となり、テレビCMや広告など多岐にわたり利用されていった。彼の元にはお金が舞い込み、それを元手に彼はどんどん新たな絵を描き続けた。そして一年後、夢であった海外での個展まで話を進めていった。
事件はそこで起こった。個展開催直前、まるで波紋が止んだ水辺のように彼の話題がピタリと止むのだ。別の画家が評価され。彼の絵は古くさい、趣がないなどの批判のみが聞かれるようになった。
結果、全財産を賭けて行われた個展は大失敗。負債を返すためにアトリエを売り、家具を売り。ふたたび知人の経営するボロアパートに戻った画家の手元に残ったものは使い古されたキャンパスと粗末な画材であった。
『どうだ、満足できたか?』
頭の中に声が響く。驚きながらもキャンパスを見ると、そこにはあの時の男の姿があった。
「神様、夢をありがとうございました。しかしどうしてこんな試練をなさるのです?」
画家は売れなくなってからの絵をキャンパスの男に見せつけた。その絵はとても幼稚で、以前賞を取った人物が描いたとは思えぬほどだった。
「今となってはあの時の絵どころか満足に絵すら描くことが出来ません。まるで才能が枯れてしまったようなのです。」
画家が問うとキャンパスの男は高らかに笑った。
『才能を急激に成長させて開花させたのだ、もちろんそのまま急速に枯れていくのも当たり前だろう。それにお前は前提を間違っている。俺は悪魔だ。お前は二度と画家として有名になることはない、その絶望こそが俺の糧となるのだ。』
「そうでしたか・・・」
画家は落ち込み、絵を丁寧に床に置いた。そして同じく床に置かれていた安物のノートを手に取り、鉛筆を手に持った。
『練習なんかしても無駄だぞ。お前の才能はすでに枯れ果てているのだから上達するようなことは決してないんだ。』
「絶望なんかしてません、それどころかあなたには感謝してますよ。あなたのおかげで私は恩返しが出来た。それに夢も叶えることが出来た。才能が枯れたと言っても絵を描くのが嫌いになったわけじゃないですし、ただ昔に戻っただけですから。」
悪魔の顔から笑みが消えた。
「それに枯れるのも悪くないですよ。枯れたからそこ種が出来て、そこから新しい画家が生まれてくるかもしれませんから。」
『二度と有名になれないんだぞ、金にもならない。そんなのでいいのか!絶望しないのか!?』
頭の中で悪魔は声を荒げていた。
「確かに悲しい事ですが、絶望してません。でも一つだけお願いがあります。こんな下手な絵で申し訳ないのですが、今のあなたの顔を絵に描いてもよろしいでしょうか?」
『やめろ、こんな今の私の顔なんて描くんじゃない!』
悪魔はあわてた様子で、キャンパスから姿を消していった。
画家の男は先ほどの悪魔の顔を思い返しながら、一日を賭けてゆっくりと、ノートに絵を描いていた。
画家の脳裏には苦虫を噛み潰したような、それでいて焦りと悔しさも混じった。そんな悪魔の顔が浮かんでいた。
「結局教えてもらえなかったな。どんな顔だったんだろう?」
職員の男は仕事準備をしながら看護師に問う。
「さあ、私も教えてもらえなかったから。でも最後の顔は幸せそうだったし、悪魔のお迎えは来なかったんじゃないかな。」
職員の男はそれなら良いかと思い、もう一度絵を眺める。やはりその絵は幼稚で悪魔の顔を想像することは出来なかった。
その後、職員の男は絵を丁寧に折り畳んで、そしてノートに挟み込んだ。そして老人の冥福を祈りながら仕事を始めるのであった。
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