3人が本棚に入れています
本棚に追加
夏の夕焼けを殺したい
「先輩、俺、小説家を殺したいです」
放課後の人付き合いに疲れてくる時間帯の、窓から橙が差し込む教室。その空間に、パソコンのキーボードが鳴らす無機質なカタカタ音、そして僕の低くも高くもない声が通り過ぎていく。
「ほう。今まさに小説を書いている私の前でそれを口にするなんて、いい度胸じゃないか」
先輩はこちらへ視線を這わせると、橙に照らされた綺麗な顔に、いつもの余裕を込めた笑みを載せた。
僕は彼女と合ってしまった目を逸らしたあと、その視線のやり場がわからず、汗をかいてテーブルを水浸しにした一〇〇円のコーラから、こつこつと一秒を刻み続けるアナログ時計を経由し、そして再び先輩の余裕そうな表情を捉えた。
「でも俺は先輩のことは好きです。先輩はバッドエンドの小説しか書かないんで」
吹奏楽部の奏でるサックスやフルート、あとは名前の知らない楽器たちの音色が学校全体を震わせているようで、僕はなんだか気持ちが悪くなって橙の空を見上げてみた。
「それはどうも。たしかに私はバッドエンドが好きだよ。でも言っておくと、君が好きなのは私ではなく、私の書く小説だと思うよ」
果たして本当にそうだろうか。
身を固めて思案する僕を無視して、先輩は先ほどと同じように、カタカタとパソコンの演奏を再開する。吹奏楽部が奏でる音色なんかよりも、僕は先輩の奏でるキーボード音の方が好きだった。
カーテンが風を含み、ふわりと膨らむ。その拍子に、窓際を陣取っていた本棚から、一番薄い数学の参考書がぱさりと、静かに地面を這った。
蝉の鳴くような暑さではないものの、六月の天気とは居心地のいいものではない。先輩は汗の滴るコーラを煽ったあと、ふうっと溜息を吐き、またパソコンを奏でる。
「俺はやっぱり、先輩が好きだと思います。だから小説家を殺したいです」
先輩の置いたコーラ缶が、ちょうどよく僕の方へ夕日を反射している。僕は目を細めてその光を遮りながら、それでも橙の光を纏った先輩を見つめた。
「話が飛躍しすぎているよ。じゃあ、どうして小説家を殺したいの?」
先輩はハッピーエンドを書かない。なぜかはわからないけど、とにかく彼女の作品は必ずバッドな結末を迎えるのだ。
「世の小説はハッピーエンドばかりです。だから俺にもハッピーエンドが訪れるんじゃないかって思っていました」
窓から見える床屋で、赤青白が回転する名前のわからない機械が、堂々と店番を務めている。ぐるぐるぐる、不思議なことに、いくら眺めていても飽きることがない。
「ほう」
飛行機の地面を響かせるようなエンジン音と、トラックの同じく地面を響かせるようなエンジン音。両方同じような音なら、波の山と谷がちょうど重なって打ち消し合ったりしないだろうか、そんなどうでもいい妄想に思いを馳せてみる。
そういった妄想が捗るくらい、僕は退屈をしていた。
「いくら待ってみても俺にあるのは、ハッピーともバッドとも似つかないどうでもいいエンドな気がして。俺はそういうエンドでいいんです。幸せでも不幸でも」
この橙色の世界を赤シート越しに覗いてみたらどう見えるのだろう。案外昼間に見える景色と大きな差はなくて、僕は「つまらない」と絶望するのかもしれない。
「へえ」
考えてみれば同じ属性越しにその世界を見ても無意味である。ゴミ箱の底をくりぬいて覗いてもこの世界がゴミ箱のようであることは変わらないし、「つまらない世界」という色眼鏡越しに眺めてみても、この世界がつまらないことには変わりないのだ。
「でも、世間には『ハッピーエンドを迎えなければならない』っていう風潮があるじゃないですか。そういう風潮を作ってるのは世間だし、でもそういう物語を作っているのは小説家なわけで」
どうでもいいけど、青いゴミ箱に橙の光が当たれば紫の属性を帯びるのではないか。そう思って部室の入口付近に視線を送ったが、そこにあったのは紫とは言いがたい色のポリプロピレン製ゴミ箱であった。
「ふーん。じゃあ」
彼女はおもむろに立ち上がり、ぱたりと、それまで演奏していたパソコンを閉じてしまった。上書き保存したのだろうかという僕の心配をよそに、ぱこり、ぱこりと、かかとを踏みつぶされた上履きが地面を打つ音と一緒に、先輩が僕の隣にやってきた。
「なんですか」
「私がハッピーエンドを書くようになったら私を殺してよ、後輩くん」
そう言って彼女はじっと僕の顔を覗き込んだ。長い睫毛に白っぽい光が載り、底の見えない真っ黒な瞳と相まって、いつもの余裕を浮かべた表情が、とても妖艶なものに思えて仕方がなかった。
耐えきれず僕が目を逸らすと、先輩は「わはは」と馬鹿みたいに笑い、そして「うそつき」と表情を変えずに呟いた。
最初のコメントを投稿しよう!