春の秒針を殺したい

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春の秒針を殺したい

 年度が替わると、先輩はあっさり卒業してしまった。毎晩考え抜いたような感傷的な言葉も、アルバイトの給料を貯めて買ったような贈り物も、僕と先輩の間にはひとつもなかった。  僕は化学の授業が好きだった。先輩は文学部のくせして、こういう理系科目が得意だったらしい。彼女が好きだったから、僕も好き。そんなありきたりな理由が頭の中を行ったり来たりする。  かつ、かつ、と、先生が黒板に文字を並べていく。それを追うように、生徒たちがノートへ自分のシャープペンシルを這わせる。僕もそれに例外なく文字を書き連ねていく。  外から吹いてきた風がふわりとカーテンを膨らませて、その拍子に「くしゅん」と、誰かがまた花粉の犠牲になった。僕は顔の半分を覆う白いマスクを上に引き上げ、くしゃみ誘発物質の侵入を物理的にブロックする。  パラパラと、ページのめくれる音がした。前方へ視線を送ると、教卓に置かれた参考書が、まるで意思を持っているかのようにページを進めていく。先生はそれを大して気にしていないようで、一文を書き終わったあと、今度は別の文章を黒板に連ねていった。  かち、かち、かち。秒針が同じ感覚で一秒を繰り返している。  アナログ時計が好きかどうかなんて、別にその物体に関して好き嫌いの判断をしたことがなかったし、利便性を追求するはずのものをその尺度で測るのは違うと思う。 『私はアナログ時計が好きだから、この部室にはあの時計があるんだよ』  僕は秒針の音をかき消すように、わざと音が出るようにペンを立てた。少しだけ大きくなった僕の筆音に、誰かが反応する様子はなかった。  授業が終わるとなんとなく寂しい気持ちがやってきて、僕は一人だけの部室で小説の文字を追った。  僕の中で先輩との時間を形作っていたものたちは、次第にその姿を変化させていった。いつの間にか一〇円値上がりしたコーラも、修理されて従順になったエアコンも、木製に取り替えられた入口付近のゴミ箱も、そのうちのどれも先輩との思い出を語るには不十分だった。  その中で唯一変わらないのは、電池の切れたまま放置された、ぴくりとも動かないアナログ時計だけだった。僕はつま先を立ててそのアナログ時計に手を伸ばすと、裏の電池蓋を手動で開封し、小物入れにあった単三電池と交換した。  かち、かち、かち。先輩の残したアナログ時計は、時の流れを思い出したかのように、一秒、また一秒と時間を刻んでいった。  春の嵐が吹き込む教室で、先輩が放置していったA4の紙を手に取り、そこに連ねられた文章へ目を這わせる。  バッドエンドで終わる小説はやはり、僕の性に合っている気がした。  静かな部室には、吹奏楽部の演奏と運動部の掛け声がちょうどいい入射角で侵入してきて、上手い具合にバウンドを繰り返しながら、永遠に部室を彷徨っている気がする。そんな妄想を並べていた僕は、部室の端に立てられた古い棚に、唯一埃を被っていない紙の束を見つけた。  それを手に取り、綴られた文字を脳へ流し込む。どうやら先輩が書き残した小説らしい。それは僕が読んだことのないものだった。  かち、かち。アナログ時計がリズミカルに時を刻むなか、ぱらりとページをめくる音を割り込ませる。  僕はその小説を読み終わったあと、その視線のやり場がわからず、一一〇円に値上がりしたコーラから、丁寧に一秒を刻み続けるアナログ時計を経由し、そして再び先輩が残したハッピーエンドの小説を捉えた。 「うそつき」  先輩の笑顔を思い出しながら、同じ言葉を口に出してみた。
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