小説家を殺したい

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小説家を殺したい

「じゃあ、乾杯」  必要以上に騒々しい居酒屋に、二人分のガラスをぶつける音が加わる。誰と誰が付き合ったとか、この唐揚げが美味しいだとか、言葉にできない下品なこととか、そういう無駄なことをみんなは平気で口にする。 「書籍化、おめでとうございます」  居酒屋店員の間延びした「いらっしゃいませ」は、馬鹿みたいな笑い声にたたき落とされたあと、哀れに地面を転がり、そして消えた。 「うん、ありがとう。で、恥ずかしい話なんだけど、後輩くん。読んでくれた?」  近くに座っていた集団の一人が、口元を抑えながらお手洗いへ走って行った。ああ、今日はこの居酒屋のトイレは使えないなと、一度手に持ったジョッキを、再びコースターに着地させた。 「読みました。いい作品だったと思います」  僕の言葉を聞いた先輩は、それが嘘であることに気づいたのか、一度目を伏せたあと、「そうか」と小さく呟いた。お世辞をお世辞と受け取られたことに対して僕は流石に居心地の悪さを感じ、「でも」と、正直な気持ちを伝えるべく、再び口を開いた。 「でも?」  先輩の注文した唐揚げやらポテトやら、なんだか脂っこいものばかりが机に並ぶ。僕の頼んだ野菜スティックと漬け物はまだやってこない。 「でも、前の作品の方が好きでした。どうしてハッピーエンドの小説ばかり書くんですか」  先輩は困ったように笑ったあと、いつもの余裕そうな笑顔を浮かべ、そして僕の目をじっと見た。  僕は彼女と合ってしまった目を逸らしたあと、その視線のやり場がわからず、コースターの上でじっと佇む生ビールのジョッキから、ちょっと高そうな先輩の腕時計を経由し、そして再び先輩の余裕そうな表情を捉えた。 「読者はハッピーエンドのほうが好きなんだ」  先輩は小さく笑うと、ジョッキに半分くらいの生ビールを勢いよく喉へ流し込んだ。僕は彼女に気づかれないよう、肺に溜まった空気やら鬱憤やらを、ゆっくり、ゆっくりと吐き出す。  僕と先輩がどうでもいい話題を消費し終わったころ、隣の馬鹿騒ぎする集団の一人が、呂律の回らない言葉で店員に会計を求めた。煙草の乾燥した匂いが僕の鼻腔をくすぐり、僕はそれを紛らわせるために、ちょうど運ばれてきたお新香を口へ放る。  大学生らしき集団が居酒屋を去ったあと、少しの静寂が訪れた。 「後輩くん」  喧騒の少なくなった店内に、何かを焼く音、そして換気扇のファンと、流行の曲のオルゴールリミックスが充満している。そしてそのバックグラウンドを担うように電車の音が空気を震わせていて、それに呼応しているのか、僕の注文した三〇〇円のコーラが僅かにその水面を揺らす。 「なんですか」  僕たちの座っている席から離れた場所で、電球が切れかかっているのか、照明の放つ光が明滅している。周りを見渡してみてもそれに気づいているのは自分だけのようで、なんとなく損をした気分になった。  先輩はおもむろにバッグの中を探ると、橙色のパッケージをした煙草を取り出し、ことりと、テーブルの上に置いた。 「私を殺さなくていいの?」  箱の中に整列している白い煙草からはほのかに紅茶のような香りがして、不思議な煙草だなと、どうでもいいことを考えてみた。先輩が先端に火をつけると、それまで茶色をしていた煙草葉たちが、ゆっくり、ゆっくりとその色を灰に変化させていった。 「いや……」  先輩と僕を繋ぎ止めているのは、あの日値上がりする前のコーラであり、壊れてたまにしか付かないエアコンであり、電池切れのアナログ時計であり、妙なテンポ感の会話なのであり、そして、バッドエンドを迎える小説なのである。 「うそつき」  先輩は色のなくなった煙草を灰皿に押し付けると、いつもの余裕を込めた笑みを浮かべ、「トイレ」とだけ言い残し、立ち上がった。  ああ、そうか、僕が好きだったのは先輩でなく、かといって先輩の書く小説でもなかった。きっと僕が好きだったのはバッドエンドの小説しか書けない先輩なのだろう、左手の薬指で輝く指輪を見て、僕はそう思った。  先輩は世間一般の望むハッピーエンドを手に入れてしまったのだ。  僕はまるでその煙草みたいではないか。これまであったはずの色も、燃え尽きたように灰にまみれてしまう。 「お会計、しようか」  僕の頭上から降りかかってきた声は以前よりも低くなっていて、ああ、変わってしまったんだなと、別に悪いことではないんだけど、言いようのない絶望感が僕の胸中でざわざわと笑っている。 「苦しいときは煙草でも吸うといいよ」  別れ際、先輩は一本の白い煙草を僕に差し出してきた。ふわりと香る紅茶の匂いに、僕はふと、「先輩、紅茶好きでしたっけ」と問いかけてみる。 「最近飲めるようになったんだ」  しかしそう言う先輩の手に握られているのは帰り道のコンビニで購入したカフェラテで、僕はなんだかやりきれない気持ちになり、「では、また」と、彼女に背を向けた。  感傷的な別れの語彙も贈り物もないまま、これ以上僕が先輩と言葉を交すことはなかった。これだけは言ってやると息巻いていたのに、「うそつき」は喉に纏わり付いたまま、それ以上昇ってくることはなかった。  先輩が選んだのは何の変哲もないハッピーエンドだった。僕と同様に迎えるはずだったハッピーでもバッドでもないエンドは、きっと誰も知らない路地裏で一人泣いていることだろう。  コンビニで購入した一〇〇円ライターで白い煙草に火を灯し、一気に吸い上げる。ちっぽけなライターをいくら眺めてみても、あのときのコーラと同じ価値を見いだすことができなかった。 「げほっ……」  何とか吸い終えた煙草に残っているのはやはり白と黒と灰だけで、どうでもいい憂鬱に身を支配されそうになりながらも、ライターと一緒に購入した携帯灰皿に、色を失った哀れな煙草を押し込む。 「あ……」  残念ながら煙草のフィルター部分だけはヤニで茶色く染まっていて、ああ、色があったんだなと、なんとなく残念な気持ちを抱いてしまった。  先輩はいつからハッピーエンドしか書けなくなってしまったのだろう。本当はバッドエンドなんて書きたくなかったのかもしれない。  僕は、先輩をそうさせた世間が憎い。  そういう風潮を作った小説家が憎い。  だから僕は、小説家を殺したい。
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