孤者異

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孤者異

「ああ、いたぞ。克実君、君の足元にある網を取ってくれ」  押入れの天井点検口に上半身を突っ込んでいる人物の尻が俺にそう言った。こっちを見ずに網を受け取ろうとする手が宙を掻く。  はい、と俺は宙を掻いていたその手首をつかんで金属製の柄のついた網を手渡した。先生は網を天井裏に入れ、しばらくごそごそと天井裏で動いた後「よし」と呟いた。 「あの……先生?一体何がいたのですか?」  俺の隣にいる小柄な女性が不安そうにそう訊く。  確か先生の持つ講義の受講生──だったか。俺は先生の呼び出しに駆り出されただけだからその辺りの詳しい事情は知らなかった。ポニーテールに真っ白いブラウス、紺のハイウェストのスカートを穿いている。どこかで見たゲームのキャラクターが俺の頭に浮かんだ。 「君が怪異現象と思っていたものだよ。君の悩み相談はこれで解決したぞ」  天井裏に片手を入れたまま、先生はこちらに顔を出した。丸縁のサングラスを着けているせいで、傍から見れば泥棒にしか見えない。ぼさぼさの髪の毛は埃を被っている。  そう。俺とこの埃で薄汚れたカッターシャツを着た『先生』は何を隠そう、隣にいる女子学生の相談──というか依頼を受けて彼女の部屋まで来たのだ。実家暮らしの彼女の部屋の天井裏で夜な夜な奇妙な物音がしたり、台所のお菓子・パン類が減っていたりする。それをどうにかして欲しい、というのが大まかな内容だ。 「克実くん、この柄を持ってゆっくり引っ張ってくれ」  再び天井裏に上半身を入れた先生がそう言った。はい、と俺は指示通りに降りて来た柄を掴み、ゆっくりと引っ張る。網の中で何かが暴れているのか、握っている柄が大きく振動してる。  先生が押入れから出てきた。持ってきた網は先端の部分が取り外せるデザインらしく、網の口を縛って袋状にしている。その中にそれは入っていた。  先生は網を持ち上げ、俺たちにそれを見せた。  袋の中には、灰色の毛並みに目を黒く縁取っている顔、縞模様でもふもふな尻尾をした動物が入っていた。 「これが『狐者異』の正体だね」  コワイ? 何だそれ。 「こ、これは……アライグマ、でしょうか?」  女子学生は袋の中で暴れるそれを指してそう訊いた。 「そうだね。アライグマだ。野生化したものがこうして家の中に入ることは多い。特に最近はここら辺での目撃情報が多くなっているね。昨日も夕方のニュースで報道していたよ。この家の個体は恐らくこいつだけだから、まだ繁殖はしていないだろう。酷くなる前に捕獲できて良かった。個体によっては『人獣共通感染症』を持っている場合もあるからね。感染したら大変だ。さて、じゃあアライグマ、つまりは``特定外来生物″を捕獲したときの対処は一つだね」  そう言って先生はシャツのポケットからガラケーを取り出し、「保健所に電話だ」と言った。    先生が電話をしている最中、俺は隣の女子学生と少し話した。 「不思議な先生ね。私が相談した次の日に解決してくれた」 「そうですね。でも相当変わっていますよ。『良い人』よりも奇人・変人のカテゴリーに入ると思います」  そう言うと、彼女は「ふっ」と笑った。 「学内で『怪人』って本人がいないところで呼ばれているわ」  ……まあ、大方合ってるんじゃないか?「怪」しい「人」だし。 「でしょうね」  と相槌を打つ。 「そう言えば、あなたは私と同じ大学の人?」  と不思議そうに俺を見る。 「いえ、俺は高校生です。バイトなんですよ。あの先生の手伝いに駆り出されたり、助手的なことをさせられたりしているだけです」 「ふふ、それは大変ね。遅くなったけれど自己紹介するね。水城大学文学部2回生の赤城典子です」  と彼女──赤城さんは俺と向かい合って軽くお辞儀をした。 「そう言えばそうでしたね。あの人、何も紹介せずに俺を連れてきましたからね。俺は高岡北高校2年の江口です。江口克実と言います」  俺も赤城さんに倣ってお辞儀をした。  俺が高校の名前を言ったときだろうか、赤城さんの表情がパッと明るくなった。 「北高!?実は私の妹も北高なの!あ、でも1年生だから知らないか」 「そうなんですか!世間って狭いですね」  意外な接点だ。 「あと10分ほどで到着するらしい」赤城さんとの雑談が盛り上がり始めたときに、先生は電話を終えたようだった。左手でずっとアライグマの入った袋を持っていたらしく、先ほどまで元気に抵抗していたアライグマも逃走を諦めた様だ。随分と大人しくなっている。  「外で待っているよ」  そう言って先生はアライグマを持ったまま玄関を出た。俺と赤城さんも続いて外に出る。  先生は玄関を数歩出た先で一服していた。 「怪音の 正体見たり アライグマって感じですかね」 「本当だよ全く。横井也有も驚きだ」 と先生はへラっと笑った。 「ヨコイヤユウ?」 「『化物の 正体みたり 枯れ尾花』を詠んだ人だよ。横井也有は江戸時代の俳人で、この句は後世になってから『化物』の部分が『幽霊』になって広く知られたんだ。怖い怖いとビクビクしていると、なんでもないただの尾花、つまりススキですら幽霊に見えてしまうって意味なんだ。怪異だと思っていたら『狐者異』になるし、正体を掴もうと挑めばこの通り。アライグマになる。まあ、私はそうなんじゃないかと大体予想はしていたよ。だから貸しのある農学部の連中から鳥類やら害獣やらを捕獲する網を借りて来たんだ」  先生は「ふうっ」と紫煙を吐いた。 「あの……先生が先ほど仰っていた『コワイ』とは何ですか?」  と赤城さんは先生に訊ねた。  俺もさっきから気になっていた事だ。 「ああ、それか。狐者異は天保12年に刊行された『絵本百物語』、通称『桃山人夜話』に描かれている妖怪のことだ。狐者異は高慢、強情の又の名にして、世間でいう無分別者のことを指すんだ。生きている時は法を恐れずに平気で人のものを食べたり、盗んだりする。死後はあの世に行けず、現世に迷い、仏道や俗世間に妨げを成すといわれている。そんなわけで経典にも「自らの悪心に執着している時は仏様でもお嫌いになる」と書かれているんだ。今でも使う「こわい」の語源でもあるんだよ」  左手にアライグマを持ったまま、先生は『狐者異』についての解りやすい説明をした。さすが本職が教授なだけはあるな、と改めて思った。この不肖め感服致しました。隣の赤城さんも、とても聞き入っている様子だった。 「一説によると、『狐者異』は夜中、勝手に台所の食料を食い漁る妖怪であるともされている。それがこいつに当てはまると思ってね。残念ながら今回はただの獣だったが」  なるほど、そういう事だったのか。合点がいった。 「しかし、現代の狐者異がアライグマってなんだか残念ですね」 と赤城さんが呟く。 「何を言ってるんだ。得体のしれないモノよりはよっぽどマシだよ。それにね、最近は鵺の正体がレッサーパンダだったり、雷獣がハクビシンだったり、科学の力で色々と妖怪の正体が掴めてきてるんだよ」  先生は溜息を吐き、何やら残念そうに言った。 「しかし……暑いねぇ」  と先生は空を仰ぐ。空には入道雲があり、俺たちを見下ろしていた。蝉の声が遠く響く。本格的に夏が始まった。  今日は7月の23日だったか。終業式からそんなに日は経っていない。夏休みの頭の1日にしては中々濃い1日を過ごした気がする。  少しでも高校生らしい夏休みが過ごせれば良いな、と俺は溜息を吐いた。
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