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犬鬼灯
私は先生の背中を見るのが好き。
さらりさらりと原稿用紙の上を滑る右手。それに合わせるように揺れる背中。
私は先生の背中を見るのが好き。
先生は時折思案するように上を向き、そして、また下を向く。
あぁ、また何か考えていらっしゃる。
その何かが私のことでないのは明確で、そのことに、少しばかり嫉妬したりもするけれど、先生はそんなことなどお構いなしで文字を紡ぐ。
滑らかに、滑らかに。
今日は良いお天気ですね。どこかへ参りませんか?
そんなことを頭の中で考える。決して、言葉にしたりはしないのだけれど、先生が気付いてくれたら良いのにな、などと思うのです。
窓から吹く風が熱を持ち、汗が頸を滑り落ちる。私は団扇なぞを持ち出して、先生の背中をそよそよ扇ぐ。
もう、夏だね。先生はそう言って、窓を見る。
そうですね。私も、窓を見る。
窓枠にすっぽりとおさまる夏の景色に、二人、少しばかり酔いしれる。
じりじりと照らす日差しの下で、色濃くなった樹葉が影を作り、その影で美しい羽虫が、少しばかりの冷気を望み羽を閉じた。
退屈だろう?何処かへ行こうか。先生の言葉に、私の心は途端に浮き足立って、えぇ、参りましょう、と口にしてしまいそうになる。けれど、それは良くないことだと分かっているので、ゆるりと首を横に振る。
少しも退屈ではありません。先生はどうか、原稿に集中して下さい。振り向いた先生の前髪を、私は素知らぬ顔で団扇で扇ぐ。はらりと揺れた黒髪が、なんとも色っぽく、身体の芯が熱を持つ。
昨晩、先生の熱が奥に触れる度、揺れた髪を思い出すだなんて……。こんな昼間から、あぁ、なんともはしたない。
私は嘘をつく。それこそ息をする様に。
先生も嘘をつく。気付かれていないとたかを括って。
欺いて、欺かれ——私たちはまた懲りずに嘘をつく。
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