この友にしてこの私あり

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 ここで、私の思考は別の方向へシフトしていく。  実際、あの男の子が「おならしよう!」と提案して、仲間が「いいよ!」と乗ってきたらかなり面白い。  少年たちを止める者は誰もいない。付き添いの大人とて無理だろう。子供3人のパワーを侮ってはならない。  彼らは、それぞれの遊びを中断し、楽しいおならに全力を注ぐのだ。  ツッコミ役は、周りの通行人がいいだろう。この場合、私と友人あたりがちょうどいい。仲良くおならをする少年たちを「えっ、えっ?」と戸惑いつつ、ツッコみつつ笑う。これがいい。  ニヤケかけたところで、ここが外だということを思い出す。  私は一体、何度マスクに救われれば気が済むのか。  なんなら、実は救われていないような気もする。多分、1人や2人は私の不審な表情に気づいているんだろう。  ふと思う。  友人の「おならしよう」も結構おかしかったが、そこから妄想を始めてしまう私も私だ。  彼女とは、頻繁には会えないものの、卒業後も変わらず楽しく付き合っている。  つまりはそういうことなのだ。この友人とこの私だから、何だかんだ上手くやっているのだろう。  この親にしてこの子あり、ということわざがある。あれは本来、褒め言葉として使われるのが正しいらしい。  ならば、我々もいい意味で使ってみようではないか。  この友にして、この私あり、と。
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