宇津井

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宇津井

 風呂に入ろうと、狭いユニットバスの床に足を踏み入れた瞬間のことである。濡れていたのか、ズルっと滑りそうになった。  かなり勢いよく滑ったが、幸いに足は途中でビタッと止まって、転倒および怪我は回避することができた。  私は、風呂場を使用したのちは必ず換気扇をつける。入浴後はもちろん、掃除をした後もだ。  実家にいた頃、換気扇をつけろとbotのように言い続けた母の教育の賜物である。給湯器の『お風呂が沸きました』と母の『換気扇つけてね』は我が家で常にセットであったのだ。  ごくたまに、うっかり換気扇をつけ忘れて申告した際の、母の絶望的な表情は忘れられない。  いかん、話がそれた。  そんなわけだから、床が濡れているなんて、まずないのである。多少、垂れた水滴が残っていることはあるが、ズルンと行くほどの水分は、ないはずなのだ。  だから、相当驚いたのだろう。滑って踏ん張ってホッとするこの一瞬、私はまあまあ大きな声で言った。 「うっつい~」  発言してから、何だそりゃと思った。宇津井?  髪をシャンプーでわしわし洗いながら分析してみる。おそらくこんな感じだ。  滑った瞬間の驚き『うわっ』、足裏と床が強くこすれた痛み『いっちー(痛い)』、踏ん張れたことの安堵『ふい~』、これが合わさったと思われる。  うわっ・いっちー・ふい~。  これがこうなる。  う(わっ・い)っち・(ふ)い~。  で、真ん中の『ち』の、’t’の音だけが残って、母音は先の『う』に引っ張られる。  う(わっ・い)っつ・(ふ)い~。  で、完成である。  うっつい~。  そんなこと考えてどうするんだと思いながら、湯舟に身を沈めた。  大量の湯があふれ出た。
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