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大学を卒業した後、しばらくは親元に住んでいたらしい静真は家業を手伝って生計を立てていた。たまに短期のバイトを入れ、今後の将来を漠然と考えていたようだ。元カノとの事件以降女性に対して苦手意識を抱いてしまった静真は今現在親密な女性は居ないようだった。なら気兼ねなく泊まってもいいなと僕は明らかに男の一人暮らしな静真の部屋でホッと胸を撫で下した。
ある日静真が家に帰ってくると、なんとあの元カノが居間に座ってお茶を飲んでいるではないか。平然とした面で、おかえりーと出迎えられた静真は眼を丸くし、頭の中が真っ白になってしまった。あれ事件が起きてよく顔を見せることができたものだと静真は冷たくあしらったが、伊達に何年も一緒にいやしない彼女は扱いを心得ており、毅然とした態度で交際をやり直したいと宣言した。元交際相手に迫られてきっぱりと断ち切れる者は少ない。静真もそうで、懐かしき思い出、情、気が合うといった要素から絆されそうになってしまったらしい。僕はそれを聞き、じゃああの何時間にも渡った僕らへの熱弁はいったい何だったのか、ふざけるなと憤った。あの時間をもう少し有効に使えば、今日の惨劇はまのがれたかもしれないというのに。
僕の顔が苦渋になっていることに気付いたらしく苦笑しつつ、すぐに断りはしなかったが、翌日改めて俺の方から頭を下げたと事の顛末を語った。
「悪いが、もう信用は消えてなくなっちまったんだ」
顔を上げると彼女は初めて見たというくらいに顔を赤らめ、不服そうにぱんぱんに頬を膨らませていた。呆然としていると、思いっきり顔をぶん殴られ理不尽な暴力に瞬間的な怒りが発生したが、ワンワンと泣き喚く彼女の姿に憐憫が勝った。非常に胸を痛めたが、慰めもせず、その横を素通りしていった。それ以降、この町を出ていったのか顔も見ていない。
にしても随分と面の皮が厚い女だと思うが、強かに生きる者は大抵厚い面をしている。いかんせん、僕も厚い面を持っているからわからんでもない。
静真は去年の夏から屋台バイトを始め出し、仕事内容にしては日給の羽振りがいいので続けているようだ。去年の年末に実家のパン屋に優秀な跡継ぎ候補が就職することを伝えられ、独り暮らしを決めた。家族ぐるみで営業していると、外部の人間は身内のノリについていけずやめることが多い。別にパンが日常的だった以外で熱心なパン好きでも、将来家業を継ごうとも考えていなかったので、後悔はないという。僕だったら、家業で就職が決まるんだったら楽だしいいなと思うが、パン屋は仕込みから何時間もパンと向き合わないといけないんだと静真が眉を寄せつつ言うので、大変な仕事できっと僕も継げないだろう。かくして、独り暮らし初心者の若葉マークべっとりの静真はゴミ屋敷一歩手前になりつつなんのかんのと暮らしているらしい。
明日もバイトかと聞くが、明日は休みらしく益々泊まることに気兼ねが無くなったので安心した。
「お前の彼女が会いに来たってことは驚いたけど、それ以外に特に事件はないんだな」
「平坦な日々だ」
静真は風呂を沸かしてくると立ち上がり、浴室へと向かった。着替えはどうすればいいと聞こうとしたがズボンとTシャツくらいは貸してくれるかとご厚意に甘えることにした。
「思い通りにはいかないな」
犬歯の間に挟まったポテチを舌でなぞりながら、僕は独りごとを呟いた。
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