ゆらゆら

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 華がないと言われ続けて五年になる。高校生の頃から憧れた役者という道を澄ました顔で追い続けていいものか、舞台の世界ごと諦めるべきか、みっともなくすがるだけの勇気があるのか、自問自答している。大学を卒業してすぐに入った劇団の同期は、才能の限界を感じてすぐに去った者、実力のある劇団に引き抜かれた者、役者から裏方に回った者と様々だ。気がつけば、何も決めきれずうじうじしている間に中途半端な位置に留まってしまったのは、この自分だけである。  役者にとって「華」とは何だろう。素質として求められるもの、あった方がいいもの、ないといけないもの、役者の数だけ答えがあるのかもしれない。自分にとっての「華」は同期の役者であり、裏方のメンバーであり、引け目を感じさせるものである。つまるところ無い物ねだりで、しかしどうすることもできないものである。  舞台の上で「目立つ」のは主演や準主演、台詞や衣装の派手な役柄である。対して「華がある」というのはどんなに地味な衣装でも、数秒しか舞台上にいなくても、台詞がなくても、観客の印象に残る役者のことである。それは舞台の上でなくても同じことである。華というのはただそこに立っているだけで感じるものであり、他の役者を邪魔しない。  自分のような役者にとって公演後に受け取る花束ほど虚しいものはない。自分には過ぎたものとも、自分を嘲笑っているようにも思えてくる。生花はいずれ枯れるといえ、自分には咲かせることさえできないのだ。こんな綺麗な花束の中でなくてもいい、花屋の端でも花瓶の中でも公園の隅でもアスファルトの裂け目でもいい。一度でいいから立派に咲いて、そうしたら一瞬で枯れてもいい。花屋や花瓶の中では無理でも、道端なら自分も綺麗に色づけるのかもしれない。そういう人も嫌というほど見てきた。その勇気も出ない自分はやはりダメなのだとわかっていながら、こうして舞台の端でくすぶっている。  花瓶に移し替えた蕾が、心なしか昨日よりも膨らんだように思う。指先でつつくとゆらゆら揺れる様は、さながら自分のようだった。
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