隣の高井さん

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 これは数年前、私が新入社員として研修を受けていたころの話だ。 弊社の新入社員研修は、3ヶ月もの期間をホテルに泊まり込みで行われる。毎朝7時にホテルからスーツを着たままランニングで研修施設へと向かい、日中指導担当からマナーや電話対応のダメ出しをされ、午後6時にヘロヘロになりながらホテルへ戻る、そんな毎日だった。  そんな苦しい日々の中で、私にとっての清涼剤があった。隣の部屋から聞こえる同僚・高井さんの電話である。といっても電話の相手は私ではないが。同じく新入社員である同僚の女の子、高井さんも同じホテル、しかも私の隣の部屋に宿泊していた。ホテルの壁は薄く、時々生活音が聞こえてくる。普通の会話であればほぼ聞き逃すことなく聞き取れていた。高井さんは毎晩誰かに電話をかけていた。相手の声までは流石にわからないが、砕けた感じで会話していたので、おそらくそれなりに近しい人物であると推測される。僕は毎晩その電話が始まると聞き耳を立てていた。まるでストーカーのようであるが、聞こえてきてしまうものは仕方がないのである。毎日、高井さんは電話で研修のことを話していた。嫌いな上司の愚痴、昼食べたもの、寝るまでなにをして過ごすかなど、何でもない話だった。壁の向こうから聞こえるそんな取り留めのない話が、私のよりどころになっていた。  研修が始まって1ヶ月の晩、慣れない研修に私は心身ともに疲れ切っていた。寝ようと思いベッドに横たわると、隣の部屋から高井さんの声がした。いつもの電話の時間だ。 「・・・うん、やっぱり目指してみるね。漫画家。会社は辞める。」 確かにこう聞こえた。前後の会話はよく覚えていない。とにかく彼女は漫画家を目指すらしい。  自分でいうのもなんだが、弊社は業界内ではそこそこ名の知れた企業である。給料も高水準、福利厚生もそこそこ、私はこの会社で一生働くつもりだった。なのに高井さんは、どうやら漫画家になる夢を捨てきれないらしい。この会社に入るためにいっぱい勉強して、就活して、面接して。それでもこの会社を辞めるというのだ。なるほど、私とは対照的だ。  私にも人並みに夢があった。ゲームクリエイターだ。クリエイターといっても企画とか、デザインとか。とにかく自分の作ったゲームを面白いといってもらうのが夢だった。でも、諦めた。学生時代打ち込んだ企画案も、デザインもプログラミングも、全部人並み。才能がなかったのだ。それでもゲームの会社の社員募集には応募した。しかし面接まで行かなかった。すべてをあきらめ、今の会社を選んだ。  さっきの話を聞いて、私は高井さんのことを嫌いになった。君が才能があるかないかなんて僕は知らないけど、漫画描く才能が本当にあるならこんな会社で研修うけてないでしょ。学生時代になんの芽も出せてないやつが、急に挑戦しても花開くわけがない。身の程知らずが、もっとまじめに生きなよ。そんな偏見が混じった言いがかりが頭の中を駆け巡る。もちろん聞こえてしまうので口には出さない。  高井さんはまだ電話を続けていた。口調は徐々に激しくなり、最後はほぼ怒声になっていた。 「明日絶対辞表出すから!!おやすみ!!」 電話はそこで終わった。結局電話の相手は最後まで分からなかった。私はその日は眠れなかった。この胸の高鳴りは何だろう。一体何から来ているのか。ベッドの中で漠然と導き出した答えは、「取り残される不安」であった。  次の日の研修に高井さんは来なかった。もともとそこまで親しかった訳ではないので、私の周りでは何事もなく研修は進んでいった。寝不足でその日の研修はボロボロであった。教官に怒鳴られると、私は泣いてしまった。教官は成人済みの男が怒られて泣いているのをみて、驚きと呆れの表情をしていた。もちろん名誉のために言うが、私が泣いたのは教官が怖かったからではない。夢を再び追い始めた彼女の勇ましさと、全てをあきらめやりたくもない仕事を失敗し怒られている自分の惨めさを比べてしまったのだ。私は涙を拭いて、研修にもどった。その日の晩、ある決意を私は固めた。  あの研修から2年後、「高井はな」という漫画家の作品「ワンモアチャンス」が世を賑わせていた。その漫画家が高井さんかどうかなんて私は知らないが、私は興味本位で本屋の立ち読みコーナーでその漫画を読んだ。その漫画は確かに、ただ単純に、面白かった。巻末のインタビューでは高井はなの半生が記されていた。中学生のころから漫画を描き始めたこと、漫画部のある高校を選んだこと、大学で何度もコンクールに落選したこと、再び漫画家を目指すために親と喧嘩して会社を1ヶ月でやめたこと。  私はいまでもあの会社で働いている。意外とうまくいっているようで、給料も同様と比べてそこそこもらっている。刺激はないが、他人に認めらる満足感は感じて生きている。でも、2年前、研修中にした決意を私は思い出した。いや、高井はなが思い出させてくれた。その決意とは「高井さんがもしも漫画家として成功したら、私もゲームクリエイターを目指す」というものだった。改めて言うが、高井はなが彼女という証拠はどこにもない。偶然似た生い立ちの他人かもしれない。それでも、僕は信じたい。あのホテルの隣の部屋で、私とは違う決断をした高井さんが、花開いたということを。  次の日の朝、僕は机の引き出しに入れておいた2年前の辞表に今日の日付を入れ、通勤用のカバンに入れた。
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