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翔斗の部屋での出来事
あと50センチ近付いたら、抑えきれなくなるのはわかっていた。この部屋には翔斗の匂いが溢れすぎている。
棚とベッドが置かれただけの埃っぽくて殺風景な部屋に、強い柔軟剤の香りを纏った洗濯物が畳まれずに積み上げられている。壁紙は破れたままで、何度も読み返されてボロボロの少年漫画が、読みかけで床に伏せてある。僕が絶対に読まないジャンルの格闘技系やヤンキーものが多い。缶チューハイの空き缶は灰皿にされているけれど、煙草の香りは甘くて暴力的なバニラの芳香剤の匂いに上書きされて苦さと混じり合い、それは心地良くはないけれど、何故かとても男性を感じさせる強い匂いで、僕の胸は疼くのだった。
「ダサいでしょ」
翔斗はベッドに腰掛けながら、薄汚れて黒ずんでいる子供向けのキャラクターものの布団カバーを指差して小さく笑った。そのキャラクターは、翔斗の大人びた顔と15歳にしては大きい体躯とは不釣り合いに幸せそうに微笑んでいて、それがより翔斗の乾いた笑顔の影を引き立たせていた。きっと小さい頃に買ってもらってから一度も買い替えてもらっていないのだろう。翔斗が家族の暖かい愛に囲まれて育っていないことは、この家に入った時から感じていた。靴が散乱した三和土に、息子の同級生が家に来ても誰も出迎えに来ない家族。隠れるように翔斗の部屋のある2階への階段を登る時すれ違った翔斗の母親は、僕に一瞥をくれただけですぐに逸らした。底の見えない暗いビー玉のような瞳だった。父親のいない翔斗は、この家にあの母親と2人きりで、重い天井に押しつぶされそうになりながら過ごしていたのだ。中学生の息子の部屋から煙草の臭いがする事に気付かないはずがないのに、注意もしない母親。
そんな事を思いながらも、くたびれた制服のワイシャツの襟から覗く、驚く程白い翔斗の首筋から目が離せなかった。腕や顔はあんなに日焼けしているのに、まだ誰も知らない翔斗を自分だけが見られたようで背徳的な悦びを感じる。あと50センチ手を伸ばせば触れられる距離にある翔斗のその体温を感じてしまったら、もう後戻りはできないだろう。
僕らは家が近所で保育園からの幼馴染だったけれど、中学に上がった今、身体も大きく運動神経の良い翔斗は比較的荒れているグループに属していて、吹奏楽部の僕とは完全に別世界に生きている。それでも2人きりでいる時は、みんなが帰った後も2人で暗くなるまで砂場で遊んでいたあの頃のように色々な事を打ち明けてくれた。タバコを吸い始めたことも、バスケは好きだったけど先輩と馬が合わなくてバスケ部を辞めてしまった事も、友達の紹介で他校のやんちゃな女の子と付き合い始めた事も、その子と一線を超えた夜の事も。
「お前の部活は周りが女だらけで羨ましいよ」
よくそう言われたけど、僕には2人で話せるこの何分間かが、どんな女の子と過ごす1日よりも大切だった。
今日ここに来たのは、学校を休んで今日で1週間になる翔斗に、溜まったプリント類を届けに行くついでに様子を見てきて欲しいと担任から頼まれたからだった。玄関先でお別れになるかと思っていたから、翔斗の部屋で2人話すことになるとは思っていなかった。
なかなか口を開かず、煙草に火を付けようとする翔斗に対して「みんな心配してるよ」と声をかけると、
「何があったってわけじゃないんだけどさ」
そう言って口籠ってしまった。僕は、最近他校の女の子と別れた事を知っている。フラれた理由は「暗いから」らしい、そんな噂が僕のところまでも届いていた。それが学校に来なくなった直接の理由では無いにせよ、傷付いているだろう事は想像できた。さっきより深く項垂れた翔斗の首筋からは、更に奥の背中の上部までが覗く。背骨の1番上の辺りに小さな黒子があることに気付いた。
「なんて言うか…」
翔斗が何か言おうとそう口を開いたと同時に、僕は50センチを超えて黒子に人差し指を触れてしまった。筋張っていてでも生温かいそこに触れた時、翔斗は一瞬ピクッと身体を震わせ、首筋の毛穴が一斉に粟立って鳥肌を立てたのが見えた。その瞬間翔斗に触れた指先に花が咲いて、一瞬にしてエネルギーが僕の血管を駆け巡って全身に根を張るようだった。
「話したくないことは話さなくていいよ」
僕はそう伝えると、翔斗の首筋を掌で撫でた。くすぐったそうにする翔斗のその向日葵のような表情を、誰からも傷付けられないように守りたいと思った。
「今日なんで僕のこと部屋まであげてくれたの?」
言葉と同じく、翔斗を触れる手も止まらなくなっていた。柔らかい耳、無精髭の生えた顎、肉の落ちた頬。翔斗は今でずっと、女性からの愛に飢えて、愛を求めて、傷付けられて来たのかもしれない。でも、女性でないとダメなの?僕なら翔斗の事を傷付けない。
「こうなる事がわかっていて僕を部屋にあげたの?」
僕の掌らは翔斗のワイシャツのボタンを外し始めている。翔斗を傷付けていいのは僕だけで、それを治せるのも僕だけだ。硝子のビイドロに恐る恐る息を吹き込む時のようにとびきり優しくして、その後割ってしまいたい。そして丁寧に破片を拾い集めて元通りに創り上げたい。自分の中にそんな男っぽい感情が芽生えている事に初めて気付く。僕は翔斗を愛してあげたい。優しくしてあげたい。翔斗を、抱きたい。
翔斗は少し驚き怯えたような瞳でこちらを見ているけど、抵抗はしなかった。翔斗の首筋に鼻を持っていく。煙草と混じった甘い汗の匂いを深呼吸する。唇を首筋や耳や頬に押し当てていく。慈しむように、命を吹き込むように。我慢できずにベッドに雪崩れ込む僕ら2人の恥ずかしい姿を、ベッドカバーの子供向けキャラクターがニコニコと笑って眺めていた。
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