さよなら僕の可愛い人

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「久しぶり」 味気ない癖にやたら重いドアの前で、気まずそうに亜莉沙が笑った。こんなに痩せてたっけ。彼女が出て行ってから2週間ぐらいしか経っていないのに、彼女の前髪がものすごく伸びている気がした。 「荷物まとめといたから」 家に一つだけあった使用感のある紙袋にまとめた、彼女の化粧水や下着を差し出す。亜莉沙はありがと、と小さく答えて紙袋を軽くのぞき込む。亜莉沙がいつもつけていた香水の香りがふわっと広がり、胸がずきずきと痛んだ。トムフォードのビターピーチ。彼女がボーナスの日に大切にそれを買って帰ってきたときも、僕はくだらない音楽を、世界を変えるなどと真剣に叫びながら汚いライブハウスでやっていた。 「今日もスタジオなの?」 紙袋と僕の中間地点に視線を落としたまま亜莉沙が聞いてきた。亜莉沙は出かける前にいつも波巻きというやり方で髪を巻いてた。今日もその巻き方だ。僕は彼女が髪を器用にフワフワと巻いていくのを見るのが好きだった。朝起きられたときは、僕がヘアオイルをつけてあげていたのに、もうそれもできない。 「これから行く」 亜莉沙は何か言いたげな顔の後、頑張ってねと頷く。 ああそうか、僕たち本当に別れるんだ。僕が馬鹿だから。バイトでノルマ払わないとやってけないレベルのクソみたいな音楽に夢中になって、亜莉沙を大事に出来なかった。 本当にずっと一緒にいたいと思っていた。今作ってるアルバムが完成したらプロポーズしようって本気で考えていた。それなのに僕は。 「じゃあ帰るね」 亜莉沙はシタシタと玄関まで向かう。亜莉沙の履いてきた靴は、彼女のお気に入りのやつだった。駅まで送ると言うと、亜莉沙は驚いた顔でこちらを見つめ、付き合いたての時みたいだねと呟いた。付き合っていた時みたいだね、ではないのが僕の愚かさをすべて表している。 外はもう暗い。駅に向かう商店街では、僕と同じように音楽やら演劇やらに熱中しているガリガリの野郎共がやかましく騒いでいる。亜莉沙はそいつらのほうを一瞥もせずまっすぐ歩く。彼女がここに来ることはもうないんだろうな、となんとなく思った。 「私、実はさ、いつか結婚するのかなって思ってたよ」 駅の明かりや喧騒が無視できなくなってきた頃、亜莉沙がぽそっと言った。指先がじわっと熱くなり、彼女と過ごした日々が一瞬で脳内に流れる。初めてプレゼントしたネックレス。コンビニで酒と唐揚げを買って、夜な夜な散歩したこと。彼女がいつも作ってくれた生姜焼き。一日布団から出ないでずっとハグしていたこと。僕は口を開いたら、言葉よりも先に涙が出てきそうで、眼球にぐっと力を入れて息を止めた。 「元気でね。ごめんね。応援してるから」 夜なのに眩しいぐらい明るくてうるさい駅と、スウェットといういかにもヒモ男のする格好でプカプカ浮きまくってる僕。君が好きだった。僕は何も言えずに、何か言ってほしそうな亜莉沙が諦めたように改札を通るのを見つめていた。 もう会えない。お互い結婚したいって思っていたのに。結局僕たちは、いや僕は、そう思っていただけで何も考えてなどなかった。貯金も全然していなかったし、連絡が来れば深夜でもバンドメンバーと集まった。 亜莉沙はもう見えない。腹が減っていることに気づいてコンビニに寄る。涙が出ているが、止め方を知らないのでどうすることもできない。こんなに泣いたのはいつぶりだろう。亜莉沙も昔は些細なことですぐ泣いたのに、最近は泣いてなかったな。というかきっと、最近も泣いていたけど、僕が見ていなかっただけなんだろう。僕の知らないところで泣く亜莉沙を想像して、罪悪感と自分を殴りつけたい気持ちが湧き出る。 コンビニは誘蛾灯のように煌々と光っていた。蛾以下の僕は力なく自動ドアを通過する。 食パン。炭酸水。きのこの山。サラミ。 無造作に、そして無意識にかごに入れていく。そういえば、僕はたけのこの里のほうが好きだったのにな。亜莉沙がきのこの山しか食わないから、次第に僕もそうなっていった。炭酸水も、亜莉沙が美容にいいからと飲み始めて、僕も真似して飲み始めたらいつの間にか飲むのが習慣になっていた。 お菓子の棚の反対にはズラッとカップ麺が並ぶ。カップ麵を食べていたら、栄養バランス考えてよと亜莉沙に怒られて買わなくなった。でももう、自分の好きなものを好きなだけ食べてもいいんだ。僕はもう一人なんだから。 「あぁ、ダメだ…」 僕はコンビニのど真ん中でしゃがみ込んで泣いた。客やら店員やらが怯えた顔で俺を見ていた。
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