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桜は散りて、泉に還る
妹は泉に足をひたした。夜空をうつしとったような水のうえに、丸い波紋が生まれ、広がり、やがて消えていく。完全に消えたのを確認して、もう一歩踏みだす。また、波紋。そうやって、時間をかけて妹は泉の真ん中へとすすんでいく。
コットンのワンピースに泉の水がしみこんで、重たそうにみえる。
長い髪がゆらゆらと水面のうえを踊った。
月夜だ。青白い光が空からふってくる。その光にてらされて、泉のまわりを取り囲むようにして咲く桜は、おそろしいほどの美しさを振りまいていた。月の光は白いのに、地上に降り注ぐころには桜たちの色に染められてしまう。
月の白、花の桜色、そして泉の群青。
はらはらと、花びらが泉に向かってふってくる。周りの地面にはおちようとしない。ただ、泉にのみ降り注ぐのだ。
妹は手をのばして、ひとひら、その手に受けとめた。
「じゃあ、にいさん。また次の春に」
振り返って、僕をみる。
「ああ」
妹の体が、泉の奥底へと沈んでいく。妹はおそれるでもなく、瞳を閉じて、泉に消えていく。僕はそれを見守った。足元から、腰、胸、肩――、とぷん、と頭の先まで沈んでいった。
妹が消えてしまうと、あたりの桜色も薄くなる。桜は散って、花びらは泉に消えていく。妹の先導に従うように、桜たちも泉の奥へともぐっていく。
やがて世界には、月の白と、泉の群青だけになった。
僕たちは桜守。
春のあいだ、さきほこった桜たちは、時期がくれば泉に還る。次の春までを、泉の底で眠るのだ。妹は、眠ってしまう桜たちを、泉の底で見守る。つぎの春、桜たちがまた咲くことができるように。その眠りを守る。
泉の底は、桜色にまどろんでいる、と妹は言っていた。
水はあたたかく、ゆらゆらとゆれている。妹はその水に身を任せる。静かな世界。たまに、ぱちんと泡が弾けるような、小さな音がする。外の風が、泉の水面を撫でていく音がする。
こちらからみる泉は、群青に染まっている。だが、泉の底は、桜たちがあつまっているから、桜色なのだそうだ。妹は桜に囲まれてそれらを撫でていつくしみ、ときには桜をベッドにして眠り、桜とともに次の春までを過ごすのだ。
春になれば、僕は妹に合図をおくる。横笛を吹くのだ。僕の仕事はそれくらいしかないのだけど、これがとにかく緊張する。泉の底まで、笛の音を届かせなくてはいけないのだから。細心の注意をはらって、僕は笛を吹く。
その音がきこえれば、妹は、ああ春だなと思う。そうして、泉の底を蹴りあげる。体は上にのぼっていく。水の抵抗があって、疲れるらしい。それでも、桜色の水底から、群青の水面へと、妹はのぼってくる。
とぷんと、顔をだす。
すると、その世界にはまだ、月の白と、泉の群青しかない。
けれどそこまできたら、桜たちも春がきたと知る。そうして、花びらは妹のあとをおって、水面へ、そして寒そうにしている自分たちの枝へ、とんでいく。また、世界に桜色がもどってくる――。
これからしばらくは、世界は一つの色を失う。
だが、また花はひらくのだ。
だから、そのときまで、さようなら。
(了)
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