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「面接」の文字が大げさな本をしまい、私は電車を飛び出した。
地下鉄の風は、嫌いではない。少し臭う温風は、私のスカートの中を通り電車の去ったトンネルへと消えた。
10時52分。出発前に撮った、自室のサボテンの写真を背景に、白い数字は現在の時刻を表示する。
面接の時間まであと40分。余裕をもって15分前に会場に到着するとして、約20分ある。角の折れた要項の「出口4 徒歩5分」と 書かれた部分と白黒の地図を再々確認し、私は改札をでた。リクルートスーツが、2時間ぶりの陽を浴びる。まだ夏の残る9月の日差しは 、クーラーで冷えた皮膚をやさしく刺した。
都会ではあるが、思い描いていた都会ではなかった。いや、神奈川県からほとんど出たことのない私が、「都会」という言葉の意味を十分に理解していなかったようだ。無難な色の、背の高いビルが建ち並ぶその町は、思っていたほど人が多くなかった。すれ違う人は、糸く ず一本ついていなさそうなオフィススタイルの服をきているか、充実した休日を楽しんでいるのだろうランニングスタイルの人かの二択だ 。
そんな彼らを避けながら、私は地図から現在地を探した。要項の「アクセス」の部分を読み返す。「出口4 徒歩5分」。もう何回確認 したかわからないその部分をまた見、辺りを見回す。セブンイレブンの位置、交差点の方向――。
あっている。
私は歩き出した。交差点をわたり、セブンイレブンの横をとおり、次の大きな交差点までまっすぐ進む。
思っていたより、簡単に目的地に着きそうだ。縮尺がよくわからないが、曲がる予定の交差点と、その目印のローソンはもう見えている。
就活に成功して得られるものは、まとまった額の収入と、働く権利と、社会人というステータスくらいだろうか。収入だけで考えるなら、アルバイトの方が良いと聞いたこともあるが、それでもせっかく4年制の大学を出てフリーターというのはなんだか嫌だ。ここまで共働きで学費を出してくれた親にも申し訳ないし、勉強を続けてきた自分としても、それでは納得いかない。仕方なくフリーターをやっている人には申し訳ないが、私はそのうちの一人にはなりたくないのだ。自分や両親も含め、「社会人」という圧倒的多数に認められることを希望している。そんなことのために、つまらない努力をする。しなければならない環境が存在する。
まぁそれだけのために十数社も落ちて、心を折られるのもどうかと思うときはある。正直辛い。実際、鬱になった人の話はしばしば聞く。
同じように苦しんでいる同胞には申し訳ないが、私はなんとしても、今回の会社に受からせてもらう。私だって、いい加減に就活を終わらせたい。
県内の文学部に在籍し、国語科の教員免許もとったが、教育実習で感じた「先生の良い顔」というものが、自分には合わない気がした。
そのため、もともと興味のあった出版系や広告系の会社を十数社あたってみたが、いわゆる「全落ち」の状態にいる。
「職種にこだわらなければ、結構どこでも内定出るよ」「東京に行けば、募集してるところいっぱいあるよ」とすでに3社以上から内定をもらった友人たちはいう。確かにその通りなのかもしれない。だから県内の就職にこだわるのをやめ、東京も視野に入れることにした。
しかしいくら入りやすいとはいえ、自分の興味の湧かない仕事に、私自身が専念できるとは思えない。そこで働くことになったとして、すぐに辞めてしまうのではないか。そうしたら結局、ある程度興味のある仕事をまた探すことになる。そうしたら、この生き地獄の就活をまたしなくてはならなくなる。それは絶対に避けたい。絶対に――。
ローソンの前まで来た。時刻はちょうど11時になったところだ。道順よし、持ち物よし、メイクよし。交差点をわたり、そろそろ見えてくるだろう目的地を探す。
地図の悪いところは、建物の名前がビルの名前であることだ。お店やクリニックの名前で表示されれば、どれだけわかりやすいだろうか。
「徒歩5分」。この数字が、「1分80メートル」というのは大学の就活セミナーで習った。
だから余裕をもって最寄り駅に到着しろ、とも。
履きなれないパンプスで歩いているため、5分で到着が困難なことは計算済みだ。そろそろ見えてくるはずの会社名を、念入りに探す。
どうやら通り過ぎてしまったらしい。
いつの間にか、地図にない謎の交差点に来ていた。11時13分、急ごう。私は今来た道をもどった。もう一度、入念に会社名を探す。
要項には「6階」とあるのだから、それらしき六階以上の背の高い建物を見つければよいではないか。きっと背の高い建物なのだから、すぐに見つけられるだろう。迷子になったときはそうしようと思っていた自分が甘かった。県内の高校、県内の大学に進むことを理想とした両親と自分が、すこし腹立たしい。冒険を怖がった末路といったら大げさだろうか。時間を確認するたび、握りしめているスマートフォンに濃い指紋が付着する。
11時23分。まだ目的の会社は見つからない。理想では、もう到着している時間を過ぎている。急がねば。パンプスのつま先とかかとに赤い悲鳴が走る。
私は走った。複数の会社のロゴが入っている入口に、目を凝らす。このビルでは、ない。
隣のビルに目を凝らした。ここでもない。
11時25分。まだ間に合う。ふと、電車の遅延で走って会場に着き、汗だくで面接に臨んだところ、それが評価されたという先輩の話を思い出した。
横断歩道向かいのあの建物かもしれない。11時28分。信号待ちがじれったい。痛むつま先が見えない地団駄を踏む。
信号が変わった瞬間のダッシュは、人生で走ったどのリレーよりも速かった自信がある。
歩くたびに刺さるパンプスで、かかとがもう限界だ。走りたいのに、走っているのに、不格好な早歩きになってしまう。ここでも、ない。
とうとう最初の交差点まで戻ってきてしまった。日差しで見にくいスマートフォンには、11時33分と表示されていた。
だめだった。絶望と疲労と諦めの感情が不器用に集まって固まった。
どれくらい立ち尽くしただろうか。黒光りのタクシーが1台曲がってきて、我に返った。
偉そうなスーツのおじさん2人が、顔をテカらせて降りてくる。
「まぁいっか」
言葉がもれた。
映画やアニメではないが、自然と青空に目線がいく。日差しが痛い。つま先とかかとが痛い。それでも、こころは思いのほか穏やかにな
った。9月の入道雲が、ごちゃ混ぜに固まった負の感情に蓋をする。
ご縁がなかった。たったそれだけのこと。
その思考は、切りきれなかったかぼちゃを、包丁ごと捨ててしまったときの感情に少し似ていた。できなかったら、どうしようもないのだ。そういう運命なのだ。
脚の痛みも、もうどうでも良い。まずは絆創膏を買おう。
私は2回前を通ったセブンイレブンに入った。絆創膏と、最寄りのセブンイレブンにはないスイーツを買おう。ここまで来ただけ、えらいではないか。
家に帰れば、サボテンの花が咲いているかもしれない。それだけが帰る理由なのは、私以外きっと誰も気づかないだろう。
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