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終業式の日がきらいだ。書道も水泳もきらいだし、遠足の日もいやだった。
「早く来いって!」
遠くから翔太君たちが怒鳴った。ぼくは弾む呼吸とセミの鳴き声でくらくらするなか、ズレ落ちたバッグを掛け直す。
「はぁ、はっ」
走り出すと、体に背負った四人分の荷物が一斉に暴れだす。大抵の学生がそうであるように、彼らもまた、夏休みまでに計画的に荷物を持ち帰ることが出来ない人間だった。
書道の日も水泳の日も、荷物が多い日はきらいだ。
今日は一学期の終業式。明日からは夏休みだ。
「遅えんだよお前。ジャンケンすっぞ」
翔太君はニヤニヤしながら手を出した。ごめん、と謝りながらぼくも手をだす。
学校からの帰り道、ジャンケンをして負けた人が全員分の荷物を持つ単純なゲーム。
「じゃーんけーんぽい!」
普通にやればランダムに勝ったり負けたりするはずなのだが──
「またお前じゃん国広〜」
手のひらを見せて彼らは笑う。ぼくも運の悪さを恥じるように笑ってみせた。
──なぜかぼくは、グーしか出せない。
荷物持ちジャンケンで毎回グーを出せと脅されていても、給食当番を押しつけられようと、小突かれ叩かれようとも、別にぼくはいじめられてる訳じゃない。
でも、こういう些細ないじりだって十分辛いけどなぁと、花に水をやりながら考える。
夏休み初日、クラスの持ち回りで、ぼくは花壇の水やりに学校に来ていた。普通は面倒くさいと思うかもしれないが、ぼくはめちゃくちゃ楽しみにしていた。
なぜなら、
「山口、中庭のほう終わったぞ」
ゆるいTシャツにスウェット姿で田代君は言う。野球部らしく丸刈りの頭に厚い胸板、たくましい腕は日々の練習でこんがり焼けていた。
そう、田代君と一緒だからだ。
「あ、ありがつ」
「噛むなよ」
彼は爽やかに笑った。えくぼが眩しい。
これからも定期的に噛んでいこうとぼくは誓う。
「田代君、今日練習は?」
「午後から」
「もしかしてスタメン選抜って今日?」
「それは明日」
田代君ははピッチャーだった。しかし、一年生の中にいい肩の奴がいるらしく、今度の試合、スタメンをその一年生と争うらしい。
「普通は三年の田代君がピッチャーだよね」
「うちは実力主義だから。監督も恐えーし」
そう言って花壇の草を抜き始める。
「いつも練習してるし、田代君ならきっといけるよ!」
しかし彼は無言だった。ぼくは焦って言葉を続ける。
「知ってる? この世界は公平に出来ていて、いい事をすれば報われるし、悪い事をすれば罰が与えられるんだ。これ世界公正仮説っていうんだけど」
ぼくはこの間本でかじった知識を必死に呼び起こす。
「えっと、ぼくはこれ、結構信じてるんだ。先生も言ってただろ、お天道様は見てるって。だから、頑張ってる田代君は絶対大丈夫ってこと!」
彼は黙ってぼくを見上げた。
「余計なお世話かもだけど、なんか、語っちゃってごめん」
「いや、ありがと。ま、やるだけやってみるわ」
そう言って、その日は別れた。
次の日の当番はぼくだけだった。本来は3日間田代君とペアだったのだが、今日はスタメン選抜があるからと彼には遠慮してもらった。午前中ゆっくり休んで選抜に備えて欲しかったからだ。
田代君は申し訳なさそうにしていたが、ぼくは当番と名のつくものを一人でやるのは慣れていたので、気にすることないのに、と逆にこっちが恐縮してしまう。
最近では、翔太君たちに押しつけられ過ぎて、もはや不満を抱くこともなくなった。当番くらいならまぁいいか、と割り切れるようになったのだ。
でも、大丈夫。
いつか彼らにはひどいしっぺ返しがあるに違いないから。
だってこんなに狡いことをして許される訳がないのだ。そのうち、誰か心優しい人が先生に告げ口してくれるはずだ。それで内申に響いて高校受験に失敗する。そのせいで低いところしか行けなくて、勉強もできなくて、将来痛い目をみるんだ。ざまあみろ。
そしてぼくは、そんな彼らを見て思うんだ。ああ、良かった。辛いことを耐えたおかげで幸せになれたって。だからそれまで耐えるんだ。お天道様は見てるんだから。
汗と土に汚れた顔で、ぼくは夏空を見上げた。
当番三日目。今日で田代君とも夏休み中に会うのは最後だった。だからなんとしても、休み中に会う口実を作らなくてはならない。
ぼくはポケットの映画チケットを握りしめる。母親に泣きついて買ってもらった試写会のチケット。内容は田代君が好きそうな野球部の話。これで彼を誘うんだ。
「おはよー!」
「っす」
やってきた彼に元気よく挨拶をする。まずは昨日の選抜のことを聞いて、おめでとうと言う。オーバーなくらいに褒めた方が嬉しいだろう。よしっ!
「田代君! 昨日はお疲れ様! どうだった?」
「ん、だめだった」
全く予想外の返事が返ってきて、万歳するためにスタンバイしていた両手が行き場をなくす。
「…え、え? 嘘だよね」
「ホントだよ。ピッチャーは一年に決まった。俺はベンチ」
雑草全部抜いてくれたんだありがと、と彼は何事もなかったかのように花壇にしゃがんだ。
「草なんてどうでもいいよ! 一年ってどういうこと? こんなのおかしいよ」
「おかしくない。俺は下手だった。だからチームに貢献できない。それだけだ」
「そんなことない!だって田代君はあんなに練習頑張っていたじゃないか。ぼくはずっと見てたから分かる! 誰よりも努力していたのは君だ」
田代君は大きくため息をつく。
「…もういいんだ。終わったことだ」
「よくない! 田代君は報われるべき人間だ。何かの間違いだよ。きっとその一年生がズルしたんだ! じゃなきゃ」
「違うって!」
突然の大声に驚いて言葉を飲み込む。
「ずるいのは俺だよ。俺は、スタメンになりたくなかったんだ。試合が恐いんだ。マウンドに上がるのが怖い。ミスって俺のせいで失点することを考えただけで手が震えてくる。監督に怒鳴られるのももう嫌だ。俺はもっと気楽に野球がやりたいんだ」
自虐的に口元を歪める。
「だから、わざと手を抜いた。スタメンになりたくない一心で、俺は勝負から逃げたんだ。そのくせ、俺の分まで頑張ってほしいとか言ってるんだぜ。笑えるだろ。
失望したか? 俺は聖人なんかじゃない」
彼は黙って去ろうとした。ぼくは慌てて呼びとめる。ここで見送ってしまったらもう二度と彼に会えないような気がした。
「待って。ぼくだって狡いんだ。当番、代わってもらったんだ。本当は別の人とペアだったんだけど、ぼくは田代君と一緒がよかったから、交換してもらったんだ。でもそれを隠してたまたま一緒になった風を装った。今日だって、ずっと田代君をデートに誘うことばかり考えてた」
手を掴みたかったけれど、拒否されるのが怖くて彼のTシャツの裾をつまむ。
「好きなんだ。田代君と付き合えたらいいなってずっと思ってた。ごめん。今言うつもりなんてなかったのに。ごめん…」
自分でも混乱していて、言うつもりのないことばかり口から溢れてくる。
永遠と思うような沈黙のあと、田代君は呟いた。
「じゃ付き合う?」
「え…」
彼が振り返る。
「付き合うかって聞いてんの」
「え、え」
「イエスかノーか!」
「イエッフ、イ、イエヌ!」
彼は吹き出す。
「そこは噛むなよ」
笑ったえくぼが相変わらず眩しくて、ぼくはちょっと泣きそうになった。
あまりにアッサリ付き合うことになったので実感が全然湧かない。むしろ夢なのでは? と何度も頬をつねった。
映画は結局行かなかった。熱血野球部映画は今ではないと判断し、チケットは母と妹に渡した。その代わり休み中は一緒に会って、本屋行ったり川辺を歩いたりした。特に何かあったわけでもないが、二人で話すのは楽しかった。
それから、田代君はプレッシャーが消えたのか、以前よりも野球を楽しんでいるように見えた。
ぼくもまた、あのとき水やり当番を代わってもらってなかったら、彼とお付き合いしていなかったことを考えると、正直さだけが人生の価値ではない気がしてくる。
そんなこんなで二学期が始まって、ぼくにとっては翔太君たちに会わなくてはならない憂鬱な日々が続いていたが、変わったこともあった。
腹が立つようになってきた。どうにも笑って流せない。そういうときぼくは黙って俯いていた。
「じゃんけんしよーぜ」
帰り道、翔太君たちは荷物持ちゲームを始めた。例のようにぼくはグー、他の三人はパーだ。翔太君たちはぼくにカバンを持たせると走り始めた。
「お前もちゃんと付いてこいよー」
重くのしかかるカバンに体をとられながらぼくは走る。すぐに苦しくなって立ち止まるが、その度に走れとどやされた。
あの日、田代君に告白した日、ぼくは気づいた。
走りながら思う。
たぶん、世界は公正にできていない。努力した人間は報われず悪いことだって許される。これがほとんどなんだ。でもそんなこと言ったらみんな好き勝手にしちゃうから、善行には褒賞を悪行には制裁が下ると教える。
だから、ぼくが幾ら耐えたところでそれが報われることはない。いつか優しい誰かがやってきて、ぼくの思う通りに全てを何とかしてくれることはないんだ。
そんな都合のいい誰かに期待してもだめだ。結局自分でなんとかするしかないじゃないか。
幸い、お天道様とやらは結構気まぐれで、たまにしか下界を見ないらしい。だからちょっとの悪事なら目を瞑ってくれるだろう。
ぼくは追いついてじゃんけんをした。 出す手はもう決まっている。
「何してんだよ…お前」
三人はパー、ぼくはチョキだ。
「負けた人が荷物持つんだろ。ぼくは勝った」
「ちげーよ。ばかだろお前。調子乗ってんじゃねーよ」
そう言って翔太君はぼくの頭を叩く。
すぐにぼくは手に持った手提げ袋を横殴りに振り下ろした。
「いっ」
翔太君は袋の直撃を受けて地面に倒れる。残りの二人もついでに袋アタックをかましておく。
「なにすんだよ!」
三人は口々に叫びだすが、自分が丸腰なことに気づいてかかってこない。そう、荷物は全部ぼくが持っているのだ。
そしてそれは、処分もぼくが決められるということを意味する。
ぼくは肩にかけたカバンを思いっきり宙に投げる。それらは美しい弧を描いて向かいにある公園の池に落ちた。
白い水柱が三つ上がる。公園で遊んでいた小学生たちが驚いて逃げていく。
「ああ!」
三人は一斉にに池に突進して行った。もうぼくのことなど眼中にはないだろう。
急激に重さがなくなったので、一人分のカバンを背負っていても浮くほど軽く感じた。
ぼくは走りだす。いつもの何倍ものスピードで景色が遠ざかっていく。
心地よい解放感のなかで、ぼくは無性に田代君に会いたくなった。
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