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2 下北氏の庭が要塞化されたいきさつ
きっかけはごく些細なことだった。
下北氏がまだ中年でなかった古きよき時代、新居を(配偶者もいないのに先走って)購入して人生の航海に漕ぎ出した若き日のこと。
「お宅の庭、きれいですね」はびこる雑草を引っこ抜いていると、鈴の音のような女性の声が降ってきた。「精が出ますねえ」
強烈な陽光が容赦なく降り注ぐ夏の日。下北青年は汗を拭って破顔した。「そうでしょう。マリーゴールド、ひまわり、朝顔。どれも月並みな花ですが、丹精込めて育ててるんです」
「よく見たらお野菜まで」通りすがりの女性は目を見開いた。
「どれも100パーセント有機栽培ですよ」
「お邪魔じゃなければ、ゆっくり拝見していいかしら」
「どうぞどうぞ、気のすむまで見てってください」
彼女は本当に気のすむまで拝見していった。そのあいだに下北は彼女の個人情報を洗いざらい聞き出し――森下かすみ、23歳、電機メーカーのBG、その他いろいろ――、いよいよ彼女がいとまを告げる段にはいつでも庭を見にきてくれてかまわない、自分の庭はすべての人に解放されているのだからと熱心に再訪を推奨した。
かすみ嬢は翌週も顔を出した。翌々週も、その次も。ただしそのときは会社の同僚が3人も一緒にくっついてきたけれども。彼女らはかん高いキンキン声で花をほめそやし、なすびを10個ほども盗みさえした(3人の申し開きは次の通りだ。「どうせ食べきれないくらいあったんだから、あたしたちがもらってあげたのよ」)。
なんであれ無料で手に入るものがあるとしたら、人間は必ずそれを手に入れる。価値さえあればなんでもだ。たとえば誰かが汗水たらしてこしらえた〈美しい庭を見物する権利〉も当然、含まれる(可能なら野菜もかっぱらおうとするかもしれない)。
下北青年の庭は(おもに例の盗人3人組が野菜の供給源があるといううわさを広めたせいで)物見高い人びとの目に止まり、次々と見物人が押し寄せる仕儀となった。
庭は踏み荒らされ、野菜は収穫時期に残っているほうがむしろまれだった。そんな日々が何年も続いた。
ある夏の日、下北啓一郎は近所の悪ガキどもがマリーゴールドをメタメタに掘り返している現場に出くわした。彼は連中をぶん殴り(クレームをつけにやってきた親もぶん殴り)、庭の要塞化に着手したのだった。
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