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「才色兼備」。その四字熟語から品田百々葉(しなだももは)がまず第一に思い浮かべるのは、同じ職場で一年上の先輩だった大墨梗子(おおすみきょうこ)である。
七年前、新入社員の百々葉に教育係として付いたのが、彼女だった。百々葉は最初に職場で梗子を見た時、これほど優れた容色を持つ女性が、何故ごく一般の会社に居るのかと驚いた。
モデルのような長身で、過剰な清潔感と薄い生活感から作り物めいた雰囲気の梗子は、見た目の印象とは違い意外にも面倒見の良い先輩で、要領が良いとはいえない百々葉に、根気強く総務のいろはを教えてくれた。
業務時間外に仕事の相談に乗ってもらったり、ミスの後始末に付き合ってもらったり。なにかと迷惑をかけ世話を焼かれているうち、入社したての百々葉にとって一時期、梗子はいちばん濃い付き合いの人物となった。
しかし、そんな蜜月は長くは続かず、二人が出会ってから半年後、梗子は異例の人事で営業部に異動になってしまった。営業部の部長が、トラブル対応で応援に来た梗子の有能ぶりに惚れ込んでしまい、ヘッドハンティングされてしまったのだ。梗子は寂しさと心細さにしょげる百々葉に、完成度が異常に高い業務マニュアルを残し、総務部を去って行った。
その後、梗子は完璧な経費報告が縁で経理部に請われ、経理システムを刷新した手腕を買われシステム部へ異動、プレゼン能力を見込まれ広報部のマネージャーへと出世、以降も部署を次々と渡り歩き、三十にもならないうちに、伝説の現役社員と化してしまった。
百々葉と梗子は一、二年に一度、会社の近くの店で食事をするくらいで、それ以外はせいぜい、会社の廊下で偶にすれ違った時に笑顔を交わすだけの遠い関係になっていた。
その梗子が昼休み、社食の一角で手作り弁当つつく百々葉の席に、彼女の癖である早足の大股で近付いてきたのだった。
「百々(もも)ちゃん、お疲れさま。それから、おめでとう。これ、お餞別」
百々葉は向かい合わせの席に座った梗子から、分厚い和紙で作られた小さな紙袋を渡された。
「あ、ありがとうございます。中、見てもいいですか?」
「どうぞどうぞ」
百々葉が覗いた袋の中身は、長方体の物体だった。それを包む紙を解くと桐箱が現われ、それを開くと二膳の漆塗りの箸が並んでいた。
「前に、外で食事するのも好きだけど、やっぱりおうちご飯がいちばんだって言ってたから」
「はい。うわぁ、ありがとうございます。…でも、梗子さんに手料理ご馳走するって約束は守れませんでしたね」
「福岡だっけ?大丈夫、いつかそっちのお宅に押しかけて、ご馳走してもらうから」
「それ、本気にしますから。絶対に来てくださいね。これ、大切にします」
百々葉は桐箱に蓋をし、それを包装紙で緩く包みなおして紙袋に戻してから、梗子に尋ねた。
「梗子さん、お昼は?食べないんですか?」
「あ、さっき外でうどん食べてきたから。気にしないで、百々ちゃんは食べて」
「うどん?珍しいですね、そば派なのに」
「社長のお供だったから」
「……社長、」
社内の情報について疎い百々葉も、社内のあらゆる部署で経験を積んだ梗子が、頻繁に社長から意見を求められているらしいという噂は知っている。そんな立場の人物であれば、社員からスパイ扱いされ嫌われ煙たがられそうなものだが、梗子の場合はそうはならない。何故なら、社内で梗子の世話になっていない者はおそらく誰一人おらず、しかも、その噂がたって以後、労働環境が格段に良くなったいう厳然たる事実があるからだ。
「噂、本当だったんですね」
「噂?……まさか、社長の愛人だとか、噂されてる?!」
「そんなの、いちマイクロデシベルも聞いたことありませんよ」
「よかったぁ。また婚期が遅れると思ったわ」
梗子は安堵のため息をつくと、壁一面に並ぶ窓の側を見た。写実画のモデルにでも誘われそうな横顔だなと、百々葉は卵焼きを口に入れるのも忘れて見惚れた。
「…百々ちゃんは今日でここを去る人だから言っちゃうけど、私、マーケティング部の課長になるみたいなの」
「ええっ?!……っと、おめでとうございます」
百々葉はうっかり大きな声を発してしまった自分の口を覆い、周りを見回してから、小声で告げた。
「めでたいのかな?」
「そりゃ、めでたいでしょう。出世ですよ?うちみたいな保守的な会社で、三十前で、しかも女性で課長なんて、聞いたことないですよ?」
「そう、それなんだけど、私、三十になったの。今日」
「それは……」
今度は「おめでとう」とは、形だけだとしても言えなかった。何故なら、百々葉は梗子の、本当の将来の目標を知っていたから。
「そう、三十。最悪でも、二十代のうちに結婚しようって言ってたのに、三十」
梗子の夢、……だったこと、それは腰かけで働いた後、早々に寿退社すること。初めて梗子の口から彼女の夢を聞いた時から、百々葉は内心、無理ではないかと薄々思っていたが、果たして、その予感は当たってしまった。
「別に、三十代で結婚ってゆうのも、ザラじゃないですか」
「百々ちゃんも言ってたよね。『やっぱり二十代のうちがいいですよね』って」
「それは、若気の至りというか、忘れてください」
「そうして、百々ちゃんは有言実行。二十九で結婚」
「わすれてください~…」
「いいの。それはもう」
如何にもよくなさそうな様子で、梗子は百々葉に向き直った。
「それよりも、今後のこと。課長よ?どう思う?なんか、ハードル高いとか思われちゃったりしないかな?男の人に」
「それは……」
百々葉は今まで出会った社内の男性たちの顔を、脳内でフラッシュバックさせた。結論としては、今後、梗子に社内恋愛は無理そうだった。
「……マーケティングのリーダーなら、社外の人と知り合う機会も多そうですよね?」
「そういえば、この前、社外の人に誘われて食事した」
「ええっ!」
「そんなに意外?」
梗子は、百々葉に普通に聞いただけのつもりだろう。しかし、美人の真顔はちょっと怖い。
「いえいえっ。えっ?それで、どんな方だったんですか?相手の方は?」
「結構年上で、仕事ができる人。顔はそんなに好みではないけど、ダサくはない」
「ふんふん。いいじゃないですかぁ」
恋バナモードに入った百々葉は、身を乗り出し気味にさせた。
「だから、誘いに乗ったんだけど」
「おお~」
「レストランに行ってみたら、その人、左手の薬指に指輪してた。それまではしてなかったのに」
「……」
「『あなたとなら、割り切った付き合いができそう』とか、言われた。愛人にされるところだったわ」
百々葉は、背中の角度をするすると戻した。梗子は、再び窓の方を見た。中庭に植えられている桜は今、満開だ。
「私、いつ花ひらくんだろう」
きんぴらにした人参を、百々葉は良く噛んでから飲み込んだ。それから、牛蒡も。自作ながら、なかなか美味しくできていた。
「付き合ってみたらどうです?」
「は」
「その、既婚者の人と」
「はぁ――っ?」
彫りの深い顔によく似合うハスキーボイスが、社食に響いた。その間に、百々葉は味気ない湯呑に入った緑茶を飲み、ゴマ油の風味を洗い流した。
「だって、印象は良かったんですよね?」
「え?え?でも、既婚者だよ?付き合ったら、不倫よ?」
「別れる前提で、付き合ってみればいいじゃないですか。梗子さん、出会い系とかは厭なんでしょう?だったら、その人と一回、騙されてでも、恋してみてもいいんじゃないですか?それで振られるなり別れるなりして、そうしたら…」
そこまで無闇やたらに堂々としていた百々葉が、急に目を泳がせ黙り込んだ。
「そうしたら?」
「そうしたら、……隙ができるかも。梗子さんの雰囲気というか、オーラに」
まさか、「無かった色気が出るかも」なんて、それなりに親しい仲だとしても、先輩に言うべき言葉ではない。
なにを冗談をと流されるかと思いきや、存外、後輩の言葉は真摯に受け取られたらしい。梗子は顎に指先をあて、しばし考え込んだ。
「そこまでしなきゃ、ダメ?」
「まぁ、荒療治ですけど」
テーブルに置いていた自分のスマートフォンが震えたのに梗子は素早く反応し、すぐにそれを手に取った。
「あ、急いで出なきゃならなくなっちゃったみたい。それじゃ、百々ちゃん、元気でね。ごめんね、バタバタしちゃって」
「いえ、あの、終業前にまたお菓子持って、ご挨拶に行きます」
「ああっ、ごめん、多分、今日はもう会社戻んない。でも、また連絡させてもらうから」
久しぶり、多分、二、三年ぶりに向かい合って座って話せたというのに、大好きな先輩はあっという間に去って行ってしまった。いや、社食から出て行く直前、振り返って、百々葉にもう一度手を振ってくれた。こういう人懐こくて可愛いところ、他の誰かが気が付いてくれないかしらと、百々葉は心から願ってしまう。
「あの人、大墨さん、ですよね?」
百々葉の背後、斜め上方で、十代の青さを残したような声が聞こえた。顎を上げ百々葉が確認すると、総務部で一番若い、藤並(ふじなみ)という後輩が近くに立っていた。
「品田さんと仲良しだったって、本当だったんですねぇ」
「『だった』じゃなくて、『だ』ね。今も仲良しだから!…藤並君、話、聞いてた」
「いいえ。何か、遠くから見ても、いかにもシリアスな感じだったので」
シリアス…確かに、梗子にとっては切実な話題ではあったかもしれない。
「あの人、いいですよね」
「え?梗子さんのこと」
「はい」
藤並はうっとりとした表情で、梗子が去って行った食堂の出入り口を見た。百々葉は咄嗟に、急いで梗子が今まで百々葉に零してきた彼女の恋愛観を攫った。
昔は年上以外考えられなかったけど、今は年下でもいいかも。で、年齢オッケー。仕事は出来る人がいいかもだけど、それが絶対条件ではない。で、一応オッケー。料理が苦手だから、出来る人は尊敬しちゃう。お、藤並君、弁当男子じゃん!……これはもしかして、悪くない?
百々葉は感じた。退職のその日、ギリギリになってようやく、世話になってばかりだった先輩に恩返しをできるのではないかと。そうして、その恩返しとは、縁結び役を担うことではないかと。
「藤並君、あのさ…」
「本当に、カッコいいですよねぇ。この会社回してんの、大墨さんだって滅茶苦茶言われてますし。年上のおじさん達まで、理想の上司はあの人だとか言ってますよ。憧れしかないですよねぇ」
百々葉は顎の位置を元に戻すと、すっかり冷めきってしまっている緑茶を啜った。
会社を去ってから半月後、百々葉が引っ越し先で荷ほどきをしていると、スマートフォンに着信が入った。
梗子から送られてきた画像に、百々葉は言葉を失った。プリンセスの持ち物といった雰囲気の輝くヘッドドレス、長い首の根元に煌めく豪華なダイヤのネックレス、美しい鎖骨の下には華奢な上半身を引き立てる繊細なレース、その下には腰のカーブを光沢で引き立てるシルク生地。画像の中の梗子は、ウェディングドレスを着ていた。
だが、何かが足りない。決定的に。画像の下には、メッセージが続いていた。
『先日、友達に頼まれて、ウェディングドレスのモデルをしてきました。似合う?』
わかってはいたが、百々葉はほっとしたような、残念なような、複雑、または微妙としか表現できない気持ちになった。
姿は、理想の花嫁。見た目だけなら、完璧なウェディングドレス姿。しかし、やっぱり、何かが足りない。それはきっと、結婚生活への期待や伴侶となる人への熱情、あとは、これまで積み上げてきた人生との決別の覚悟とか。
でも、それでもいいじゃないかと、百々葉はやはり、思わないでもない。百々葉の敬愛する先輩は、どう見たって、十分すぎるほど輝いていると思う。バラの華麗さやユリの可憐さ、サクラの儚さとか、そういうのではないけれど、ヒマワリのように元気に明るく、咲き誇っているのだ。
『とってもお似合いです!』
だから、そのヒマワリがちょっとでも萎れてしまわないよう、『結婚前にウェンディングドレスを着ると、婚期が遅れるらしいですよ』なんて、無粋なことは打たなかった。
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