明日、音を失う君と光りを失う僕と

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暖かな日差しに恵まれた桜並木の道。 散りはじめた花びらが、真新しい制服に身を包んだ新入生たちの頭上を舞っていた。 これから始まる新生活に期待と不安を同時に持ちながら、軽い足取りで母校となる学校の校門をくぐって行く生徒たち。 そんななか、一人の少女が霞んだブルーの空を見上げ、桜吹雪に長い黒髪を靡かせ佇んでいた。 その彼女にピントを合わせ、少年は夢中でカメラのシャッターを切った。 ふと、カメラから目を離した少年と、振り向いた少女との目が合う。 春の陽だまりのなか、柔らかく彼女が微笑んだ。 東雲健翔(しののめけんと)が市立中央高校に入学して二週間が過ぎた。 桜はとうに散り終わり、顔を覗かせた緑の芽が、新たな季節の到来を告げていた。 慣れない通学路、中学とは比べものにならないくらいの広い校舎。 何より、初めて顔を合わせるクラスメイト・・・。 全員が手探りで、新しく出会った仲間との関係を構築すべく奮闘している。 すでにクラスには、気の合った数人によるグループがいくつかできつつあった。 昼休み。 教室の喧騒や、世の中一切を拒絶するように健翔は机に突っ伏していた。 クラスメイトの無邪気な笑い声に耳を塞いで『黙れ!』と叫び出したい衝動に駆られ、拳を握りしめてその激情に耐える。 今の健翔にとっては、周りの何もかもが神経を逆撫でする材料でしかなかった。 「御曹司、昨日の話どうなった?」 顔を上げない健翔の前の席の椅子に我が物顔で座り、無反応の健翔に平然と話しかけたのは、早くも新聞部に落ち着いた田中という丸顔の男子だった。 「おい、聞いてるか、御曹司」 億劫そうに顔を上げ、長い前髪の隙間から田中を睨む。 「俺は新聞部じゃねえって言ってるだろ」 ぼそぼそと、しかし鋭さを含ませた声で健翔が応じる。 「そこを何とかさあ。頼むよ、御曹司。その高いカメラで写真パシャパシャ撮ってきてくれればいいんだからさ」 健翔の席に置かれた高価な一眼レフのカメラを田中が示す。 「どうしちゃったんだよ御曹司。この間から何か変だよ」 再び突っ伏しようとする健翔の顔を田中が覗き込む。 「うるさい、その呼び方やめろ」 ぶっきらぼうに田中を突き放す。 二人のやりとりに、教室のあちこちからささやかな笑い声が起こる。 健翔を、最初に『御曹司』と呼び出したのは田中だ。 それを機に健翔をそう呼ぶ者がちらほらと現れた。 健翔の父親は、不動産屋をはじめ、手広く事業を展開する経営者だ。東雲財閥、などと揶揄されることもある資産家である。 その点を踏まえると、『御曹司』という表現は、あながち間違っていない。 健翔が持ち歩くカメラだって、普通の高校生が買い与えられるには高価すぎる代物だ。 それだけでも、恵まれた環境で何一つ不自由なく生活していることが窺える。 田中をはじめとする健翔に寄ってくる連中は、なにがしかの恩恵を受けようとしているのは明白だ。 「彼女の噂は知ってるだろ?今最も旬なネタなんだ。逃すわけにはいかないんだよ。それに彼女だって、未来のプロカメラマンに撮ってもらえるなら喜ぶだろ。な、だからさ」 田中が言い終わらぬうちに、盛大な音を立てて健翔が椅子から立ち上がった。 田中が目を丸くして健翔を見上げる。 「条件がある」 「条件?」 「二度と御曹司と呼ぶな。それを受け入れるなら、一回限りで頼みを聞いてやる」 驚く田中の答えを聞かぬまま、カメラを掴んで健翔は教室をあとにした。 思わず袖を捲りたくなる陽気にまとわりつかれながら、音楽室へと続く階段を昇る。 音楽室にはまだ二度ほどしか足を踏み入れていない。 そこに彼女はいる。 田中の言う彼女とは、同じ新入生の野田雪月(ゆづき)という女子生徒だ。 これまで数々のコンクールで優勝を飾る天才ピアニストである。 そんな彼女に纏わる噂は、入学してほどなくして、流れはじめた。 それは、野田雪月の聴力が病によって徐々に失われると診断された、というものだった。 天才ピアニストを襲った悲劇。 愛らしいルックスも相まって、彼女は一躍学校の有名人になった。 こんな話題性のあるネタに、新聞部が飛びつかないはずがなかった。 しかし、と健翔は思う。 彼らを突き動かすものはなんだろう。 ジャーナリスト気取りの薄っぺらい使命感だろうか。 それとも悪趣味な野次馬根性だろうか。 健翔にはわからない。 しかし、ジャーナリズムの名の下に、他人の心に土足で踏み込み、プライバシーを暴き立てていいわけではないと思う。 今の健翔には無遠慮に野田雪月にカメラを向けることはできない。 自分の中に眠るどす黒い感情の塊に囚われた健翔が足を止めた。 その正体は恐怖と焦燥だった。 その時。 ピアノの旋律が耳に届いた。 思わず階段を駆け上がり、第一音楽室とプレートの掲げられた教室のドアに手をかける。 飛び回る心拍数を整えるように深呼吸を繰り返し、意を決してドアを開く。 ピアノの音が止まる。 開け放たれた窓から吹き込む風が、汗ばんだ健翔の首筋を心地よく撫でていく。 部屋の中央のグランドピアノに向き合って座っていた少女が、ドアを振り向いて健翔を見つめる。 長い黒髪を春風に靡かせ、大きな瞳で不思議そうにこちらを見ている。 噂通りの美少女だ。 彼女の視線に射抜かれ、喉を詰まらせながらも何とか言葉を絞り出す。 「野田雪月さんだよな。写真、撮らせてほしいんだけど」 一眼レフを掲げて告げる。 「写真・・・?わたしの・・・?」 鈴のような澄んだ声で、雪月がきょとんと首を傾げた。 その仕草があまりにも自然で邪気が感じられず、夢を断たれた悲運の少女、という悲壮感は欠片もなかった。 あまりにも普通、だった。 穏やかと言ってもいい彼女の表情を見て、ここ数日健翔の中にわだかまっている飼い慣らせないどす黒い感情の塊が行き場をなくし、目の前の野田雪月に向かって牙を剥いた。 どうして、どうしてそんな顔ができる。 怖くないのか、絶望しないのか、将来を憂いたりしないのか、理不尽な現実に、怒りを覚えないのか・・・。 「東雲くん、だよね?隣のクラスの」 口を閉ざしてしまった健翔の代わりに雪月が静寂を破った。 雪月が自分を知っていたことに、狼狽を覚えながら、それでも苛立ちに支配された健翔の口からは、八つ当たりとしか思えない言葉が滑り出して止まらない。 「聞いたよ、あんたの噂。耳が聴こえなくなるんだって?それなのにまだ未練がましくピアノ弾いてるのかよ」 雪月は何も言わない。ただ寂しそうに目を伏せている。 「自分だけが辛いなんて、悲劇のヒロインだなんて顔するなよな」 健翔が言い放つと、雪月は困ったように、笑った。 「悲劇のヒロインか・・・。わたしそんな顔してたのかな。不快な思いをさせたのなら謝るよ。ごめんなさい」 静かに、雪月は頭を下げる。 その反応に健翔は呆気にとられてあんぐりと口を開く。 「あ・・・いや・・・」 それ以上言葉が継げず、居たたまれなくなった健翔は踵を返すと、雪月の顔も見ずに全力で階段を駆け下りて行った。
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