彼女の爆発

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彼女の爆発

9665f6ed-e546-4c4e-b433-84254c441cf4  パンを焼く為の竈は魔法の火で満たされている。  中を覗いて温度を確かめたテアが、小枝の先の火を消すように軽く右手を払うと、竈の中でごうごうと燃えていた全ての火は瞬時に姿を消した。  木炭や石炭の跡もなく、ただ魔法によって籠った熱だけが残っている。 「竈の準備できてます」  汗で少しずり落ちた眼鏡を直しながら、テアは周囲に知らせた。 「テア! 会計!」 「はい」  知らせに応答もせず、調理作業中のパン屋の主人が指示を飛ばす。  テアは小麦粉の積もる調理台の間を縫って、小走りで会計台へ向った。  会計台の上から顔を出した彼女を見ると、客の男性はあから様にぎょっとした。それを受けて、テアは自分が眼鏡を着けたままなのを思い出した。慌てて眼鏡を外しエプロンのポケットにねじこむ。  気まずい思いをしながら会計作業を済ませるとすぐに次の客が続いた。商品のパンを台に置く客の手を見て、彼女は忙しい動きを一瞬止めた。  その手を包む手袋は白く滑らかで清潔で、薄汚れていたりあるいは素手の常連客達の誰とも異なって、上等な印象だったからだ。 「どいて」  軽い体当たりを伴ってテアを退けたのはパン屋の娘のキャロルだ。 「人前に出るんなら眼鏡外せって言ってるでしょ。恥ずかしい」  耳元で低く言った後、すぐ客の男に向き直ると媚びた笑顔を浮かべた。  そもそも会計はキャロルの担当で、彼女が親の目を盗み裏で自主的な休憩を取っていなければ、テアが会計台に立つことはなかった。  それを知りつつも、テアはただ視線を伏せて静かに調理場へ戻った。  パンを買い求める客たちは誰一人として、彼女の魔法の火が竈を温めていることを知らない。魔法を使う時は表から見えないように隠れつつ、ただ黙々と仕事をこなす。  そのようにしていつもと変わり無く、この日の営業時間も慌ただしく過ぎていった。  日が落ち、店の前の掃除を終えたテアが店内に入る。  中では店主とその娘が言い合いの真っ最中だった。不満気な顔をしたキャロルが厨房に入って来た彼女に気付く。 「ねえ、テア!」 「はい」  従業員はいつものように反射で返事をした。 「パンの仕込みやってみたくない? ねえお父さん、たまにはテアにも教えてあげれば?」  テアは上目遣いでパン屋の主人の顔を窺った。ベイカー氏は彼女を一瞥すると呆れたように笑った。 「ハッ、テアになんざ教える意味がねえ。お前がやって覚えんだよ」  楽をするための思惑がうまくいかずキャロルは不貞腐れた。  一方でテアは特に落胆する態度も見せず、なるべく気配を殺して二人から離れた所の調理台を片付け始めた。 「大事なのは手に職だ。竈の火の魔法持ってる程度じゃどうしようもねえって、お前もわかってんだろ? 今はガスのおかげで火加減だってちょちょい、灯りで夜中だろうが仕事もできる。だろ?」 「お父さん!」 「仕事中は俺ァお前のお師匠だぜ。俺とジョセフは明日の夜明け前に教会の納品だ。残りの仕込みやっとけよ」  店主が調理場の扉を開け出ていくと、キャロルとテアがその場に残された。  テアはなるべく見ないようにして片付けをこなしていたが、どうしようかと考えていると、ドンッ! という音が部屋に響いた。  振り返って見るとキャロルが小麦粉の入った袋を調理台の上に置き、こちらを睨んでいる。  テアはその視線に、怒りと苛立ちと助けを乞う迷子のような心細さを感じとった。 「(言い方間違えると、恩着せがましいって余計怒るからな……)」  慎重に言葉を選ぶ。 「……手伝える事、何かある?」 「逆に無いと思うの? あたし一人で出来るわけないじゃない、クソ親父! 里帰りへの嫌がらせよ!」  キャロルは調理台を叩いて無闇に小麦粉を舞わせた。 「何からする?」 「今考えてるわよちょっと黙ってて!」  完全に臍を曲げてしまったが、もし彼女の視線を無視して手伝いすらしなければ、後々もっと面倒な事態になるのをテアは知っている。  相手に気付かれないよう密かに溜息を吐くと、ポケットから取り出した眼鏡を着けた。  キャロルの手伝いが終わる頃には既に夜中だった。  テアは暗い屋外をランプ片手に進むと、分厚い木製の扉を開けた。  そこは彼女の家ないし部屋で、パン屋の敷地内にある石造りの元倉庫を改装した場所だ。独立はしているものの家というには簡素すぎるが、テアは唯一ここでのみ気を抜くことが出来る。  ところが、何か固い物が窓に当たる音がしてその身に緊張が走った。  ずれ下がっていた眼鏡を直しランプを掲げながら恐る恐る近づいてみれば、窓の内側に止まっていたのは、ありふれた小さな甲虫だった。  安堵の息を吐くと、テアはどこからから迷い込んでしまったそれを手でそっと捕まえた。 「眼鏡かけてる時でよかった。すぐおまえが分かったよ」  扉を開け外に出ると手を開く。甲虫の羽根がぱっと広がり、夜の闇へ飛びあがった。  テアは幼い頃から目が悪く、よほど近い物しかはっきりと見ることが出来ない。出来るならば常にこのくすんだ金縁の眼鏡を着けていたいが、調理場か自分の部屋以外では外すようにこの家の者に言われている。  眼鏡は珍品であり――ある程度裕福で年長の者でもなければ持たない物で、ましてやテアのような十七歳の女性が身に着けているのは――眼鏡屋の無いこの街の住人の目からすれば、あまりに奇異に映り、見慣れぬ故の嘲笑の的にもなるからだ。  彼女に眼鏡を贈ったのは彼女の家族である。十歳の時にその家族を火事で全員失っている。  テアは手を下ろした。  庭木の間へ甲虫が姿を消すと、地面にこさえられた竈に目を向ける。  竈と言っても調理場にあるような物ではなく、端材の石を積んで作られた彼女専用の簡易的な物だ。  中は石炭もなく空だったが――前に立つテアが右手を一度、宙を切るように振ってみせると、ごうという音と共に竈の中が火で満ちた。周囲に暖かさが広がる。  これが今のテアが使える魔法のうちの、ひとつ。 「(夕飯は朝に回して、体を拭いて寝ちゃおう)」  水を張った鍋を竈の上に乗せ湯を作ると、右手を一振りして竈の火を消す。  鍋を部屋の中に運んでから、ランプの蝋燭の火を吹いて消した。そして、小さく右手を振る。  ランプの中に光が灯った。青白さの中に時折淡い紫味が混じるそれは、光度が一定ではなく揺らぐのは火と似ているものの、熱を帯びないことは相違している。  ベイカー家で暮らし始めた十歳の時から使えるようになった火と、半年ほど前から急に使えるようになった光。この二つが、今のテアが持っている魔法の全てだ。  後者はベイカー家には秘密にしている。魔法を持つ者を「ろくでもない不良者予備軍」と考えているベイカー氏にとって、それは吉報ではない事をテアは理解している。  それでも、この光に包まれる部屋でひとり過ごすのが、彼女にとって唯一心が安らぐ時間だった。  とはいえあまりぼうっとしていては折角の湯が冷めてしまう。テアは身体を拭う準備にとりかかった。暖炉もないこの部屋では湯も悠長に構えていてはくれない。  絞った布で身体を拭きながら――この時間、いつも思い出す話が合った。以前キャロルが仕事中にしてきたもので、彼女がまだロンドンにいた頃に知人の家で「浴室」という風呂専用の部屋を見たという話だった。  ベイカー家のみならずこの街全体でも風呂専用の部屋を持つ家など無い。ほとんどが自室で身体を拭くか、あるいは居間の暖炉の前に浴槽を運んできて週に何度か入浴する程度だ。  その身体を綺麗にするためだけの部屋で入浴するとはどんな心地なのだろう、と元倉庫が全てのテアは思った。 「(そんな部屋が家にあるなんて、ロンドンってすごい所なんだな)」  この街――ウィンフィールドで暮らし始めて以降街の外へ出たことのないテアは、ロンドンについてはキャロルから聞いた話でしか知らない。  鍋から上がる湯気で部屋は少し湿度を増した。寝台に座り歯の欠けた櫛で乾燥した髪を梳くと、小麦の粉が落ちる。やっとそこまで終えるとテアは布団に入って横になった。  その耳へ、遠くから特長的な音が届いた。  蒸気機関車が走る音だ。  羊毛産出地の一帯にあるこの街には鉄道の駅が設置されており、布などの加工品を朝一番にロンドンへ届けるための貨物列車が夜中に発つ。  テアは汽車に乗ったこともなかったが、ロンドンまでは何時間もかかるとキャロルから聞いたことがあった。 「おやすみ」  そう呟いて手を振り、ランプの中の光を消した。部屋は濃い闇に包まれる。  目を閉じて遠ざかる貨物列車の音を聞きながら、テアは空想の中で、貨物車両の羊毛布の間に自分を挟んでみた。  ぬくぬくと眠っている間に、その列車はやがてロンドンへ着くだろう。  もちろんそんなことは全て空想の上の話で、竈の火しか能のない自分には今あるここ以外無いと、テアは随分前からあきらめている。 「お前が作ったんじゃねえな」  ベイカー氏の前に立つキャロルと、その後ろで水回りの掃除をしていたテアに緊張が走った。  教会への納品から戻ったベイカー氏は、娘が作った三種のパンを試食していた。 「私が作ったわ」 「こっち二つはそうだ。でももう一個の方……お前が作るのはちょっとばかし歯につく感じが残るのに。テア!」 「はい」  従業員は飛び跳ねるように振り返った。 「お前がやったのか。ひと様の技術を盗み見してやがったか?」  テアは横目でキャロルを窺った。キャロルも一瞬テアを見て、すぐに父親に向く。 「少しだけよ。テアは」 「お前がやれって言っただろうが!」  ベイカー氏が調理台を拳で叩いた。小麦粉が散る。 「掃除とか、計量とか、水を入れてもらったりはしたわ。それだけよ! 触らせるわけないでしょ!」 「じゃあなんで違う!」 「成長って言葉も知らないの? 私だって色々、色々勉強してんのよ!」  実のところ、ベイカー氏の見立て通り一つはテアが作った。他の二つも手を貸している。  教えを受けておらずとも七年間竈を守ってきた彼女には、そこを出入りするパンの微妙な差が――材料の配分や、作り手のどのような動きで生まれるのか――仕事の合間の自主的な観察で身についていた。  密かにキャロルを手伝ったのは今回だけではない。しかし、ベイカー氏を恐れているテアがすすんで作ることはないので、いつもなし崩しに半泣きのキャロルに巻き込まれ結果的に手を貸すことになっているだけだった。 「そもそも私一人で全部やらせるなんて時間足りないのわかるでしょ!? わざとね!」 「足りねえのはお前のオツムだよ!」  ついにキャロルが泣き出した。 「私が、私が出戻りだから、追い返したいんだわ!」  こうなっては最早パンなど関係なく、父と娘の怒鳴り合いになるしかない。  着替えて調理場に入ってきた長男のジョセフに指示されて、テアは商品の陳列のため調理場を離れた。誰も止める者がいない喧嘩は、音量を落とさずに店中に響いた。  ランプの光が消えて部屋が真っ暗になる。テアは布団を被りなおした。  朝の父娘喧嘩によって調理場の空気は一日中最悪だったが、仕事は特段問題なく終わった。  喧嘩自体は、袋に満杯の小麦粉を娘が父にぶちまける寸前で、珍しく早起きしていたベイカー夫人が間に入った事で中断した。何かあって逆鱗に触れた際、ベイカー家で一番非道になるのが彼女だということはキャロルはもちろんテアも含めた全員が知っているからである。  ベイカー家の長女であるキャロルが、嫁ぎ先のロンドンから〝出戻って〟きたのは一年前の事だった。  離婚ではなく「一時的な里帰り」と本人は話した。その話に触れるのはベイカー家内では禁忌だったが、そのわりに、ロンドンで百貨店という夢のようなお店に夫に連れて行ってもらったこと、最新の台所にはガスではなく電気製品というものがあること、二輪の自転車という乗り物が流行っていること――などをキャロルは自分の成果物のようにテアに話して聞かせたりもした。  相手はロンドン郊外に紡績工場を持つ年上の男だった。結婚してパン屋を出て行ったのは彼女が十八の頃で、十歳のテアがベイカー家に引き取られてから二年後のことだった。  その長女の一年前の里帰り以来、テアの生活は悪化し続けている。  それまでテアが使っていたキャロルの部屋は元の持ち主へ戻された。また、嫁に行くまでのわずかな間だったが同室だった少女二人の仲は――キャロルの自己中心的な部分は十分発露していたとはいえ――そこまで悪いものではなかった。少なくともテアはそう思っている。  しかし、里帰りしてからのキャロルはテアをわかりやすく見下すようになり、癇癪の頻度も増えた。  そしてひとつ、彼女の帰還でテアが確信したことがある。  引き取られてから今までずっと、テアの仕事は竈の火の管理や掃除などの雑用が主だった。白い粉がふかふかのパンになる過程は十歳のテアにとっては興味深いもので、いつかその技法を教えてもらえるのだと漠然と思ったものだが、終ぞ無かった。  いつの事か、善意で手伝おうとした時などは「勝手なことをするな」と伸ばし棒で叩かれた。右腕の腫れは一週間程引かなかった。  一方で、一年前に手伝いを再開したキャロルには――跡継ぎの長男ジョセフに対して程ではないにしろ――いくつか指南している。 「実子でもない、魔法持ちの私には、大切なパン作りの技術を教える気は最初からなかったんだ」  そう確信したところで薄々気付いていたこともあり、テアはこの生活の何かが変わるでも、変えようともしなかった。孤児になったのを赤の他人であるにも関わらず引き取って働かせてもらっている恩も感じていた。 「はあ……」  布団を被ったテアは深く息を吐いた。多少肌寒くとも、気疲れから解放される自室はテアにとって唯一の安息所に違いない。  今日はベイカー家から分けてもらった食材(大体が店の商品の端材)でスープを作り、パンと合わせて夕食にした。  腹に食べ物が入り温まった体は、目を閉じるとすぐに眠りを欲した。  眠りに入り、どれほど経った頃だろうか。  テアは夢現の中で窓に何かが当たる音を聞いた。  これは夢か、また虫がぶつかっているのか――まばたきを何度かしたところで、跳ね起きた。  窓の向こうに誰かいる。  窓を叩いていた人物は、窓越しにランプの灯りをテアに向けると言った。 「着替えて出てきて」  淡く照らされた笑顔は、キャロルのものだった。 「クソ親父の無茶振りを手伝ってくれたお礼よ。あいつ、テアを働かせてばっかりでろくに遊ぶ時間もあげてないでしょ? そんなの人生損してるわ。良い所知ってるから、あたしの友達と一緒に紹介してあげる」  〝良い所〟までの道中、キャロルはそう説明した。 「遊ぶ時間より、寝る時間が欲しいな……」  と内心思ったのと、何か嫌な予感がしないでもないことからテアは迷ったが――従うしかなかった。  土を固めた地面は夜の街を行く二人の足音を吸収してくれる。時折ガラス瓶の破片などを踏んで鳴らしてしまう音に、テアはおびえた。  所々のガス灯が石造りの家々を白く照らしおり、携帯ランプと合わせて歩く分には困らないが、馬車も通行人もいない。乱立する煙突から出る煙も無い。  今が何時かわからないが、おそらくだいぶ夜中だろうとテアは思った。女だけで歩くなど有り得ないことで、外套のフードを深く被った。普段なら外しておく眼鏡も、暗く覚束ないので着けたままにしている。 「二人で出かけるなんて久々じゃない?」  テアに話しかけるために振り返ったキャロルの顔には、仕事中とは違う濃い化粧が施されている。 「うん」  この時ばかりはテアは心から頷いた。キャロルの表情もここ最近見たことのない楽し気なものに見えた。  テアが迷いながらも提案に従ったのは、断った時に予想されるキャロルの大癇癪をまず避けるべきと考えたのが一番だが――彼女に「一緒に遊ぼう」と言われるなど、五年前の、まだキャロルとテアが同じ部屋で暮らしていた時以来だったからだ。  朝の大喧嘩の時、キャロルは「テアがどうしてもパン作りをしたいと言ってきかなかった」と完全無罪を主張することもできた。それをしなかった理由をテアは「そう言ったところでテアにはパンを触らせるなという命令を守らなかったことになり、折角作ったパンは捨てられてテアと一緒にどうせ自分もぶたれる事になる」からだと考えていた。  だがもし、手伝ってくれたテアを巻き込みたくなかったからだとしたら――これから連れて行ってもらう良い場所が本当に「父の無茶振りを手伝ってくれたお礼」のつもりなら。それは彼女なりのまごころである。  常日頃の行いから完全にそう信じることもできないが、完全に否定することもテアは出来なかった。 「(五年前のキャロルだったら、そういうこともありえるかもしれない――)」  二人は坂道を上り、武骨な石壁伝いに歩いた。ガス灯の間隔が開き夜の範囲が広くなる。この辺りは織物工房が集まっているので、日中以外はひと気が無い。どこからか夜鳥の鳴き声がした。 「キャロル、どこまで行くの?」 「怖がりね。すぐそこよ」  キャロルはまた楽しそうに笑った。 「テアもきっと気に入るわ」  テアは気付いた。曲がり角から明かりと人の声がわずかにもれている。  そこは教会の裏手にある小さな林だ。大部分が木材として刈られており、奥の方以外は土の露出した空き地然としている。  そこに五人程の人が集まり、銘々木材に腰掛けたり立ち話をしていた。曲がる前からもれていた光は、彼らが明かり取りに設置した焚火だった。 「みんな」  キャロルは駆け出した。 「キャロル」 「よお」 「エミリー久しぶりじゃない!」 「キャロルも来るって聞いたから」  輪に入ったキャロルの後方でテアは立ち止まった。焚火の臭いの狭間に酒が香っていた。 「その子がパン屋の?」 「そう、テアよ」 「テアよろしく」  酒の瓶を片手にキャロルの友人が話しかけた。皆、キャロルと同年代くらいの男女だった。 「私の友達。あなたと同じ魔法持ちもいるわよ」 「え……」  フードを深く被っていたテアは、その言葉に顔を上げた。 「さ、全員そろったところで、始めようぜ」  一同が歓声をあげた。  流れるように作業が始まり、空き地の中央にレンガが二つ置かれ、右手と左手に皿を持った者に銘々が集まり硬貨を載せた。 「一回目は誰と誰?」 「トビーとエブリン!」  テアは混乱の中やっと事態を把握し、その瞬間血の気が引いた。 「(賭け魔法だ!)」  呼ばれた二人は五メートル程空けて対峙し、中央にはレンガが二つ置かれている。各々担当のレンガへ手のひらを向け構えた。 「三、二、一、行け!」  重い物がぶつかったような鈍い音が走った。二つのレンガの内一つは急激に盛り上がった土によって弾き飛ばされ、一つは手前の地面を風が浅くえぐったが、その場に倒れただけだった。 「トビーの勝ち!」  皆が思い思い悲喜の声を上げている中で固まっているテアの前に、友人の一人が来た。 「テア、わかった? なんでもいいけど、魔法で自分のレンガを倒すかなるべく遠くへ吹っ飛ばした方が勝ちね」  初めて見たが存在は知っていた。ベイカー氏が「あんなのをやるのはクズ。万が一関わったら家から追い出すからな」と口酸っぱくテアや実子達に言っていたからだ。  この国で魔法を持って生まれてくる者は、少ないとはいえ極めて珍しくもない。持って生まれた子は大抵物心がつく前後にその力が発現し、水滴を降らせたり、蝋燭の火を点けたりというような極単純な魔法が使える。  珍しいのは、十五の頃を過ぎても魔法を持ち続けている者だ。  魔法は鍛錬しないでいれば衰え、果てには完全に失う。失えば生涯戻ってくることは無い。  日常で少し使う程度なら大抵の者は成長と共に魔法を失うが、中にはテアやキャロルの友人のような少数派がいた。  賭け魔法はその少数派の一部が行う賭博である。  昔、この辺りの地域で賭け魔法が大流行し、ついには怪我人や建物の損害が出るまでになった。賭け魔法は禁止され、魔法教育は子供たちの魔法の力を抑制するために施されるものとなった。  しかし皮肉にも、禁止されたことで賭け魔法は「無法の裏賭博」と段階を上げ、それに参加する魔法持ちは「悪党」参加していない魔法持ちにも「不良予備軍」という悪しき箔がついてしまった。  ベイカー氏は「身分を保証する血縁もいない、ましてや魔法持ちのお前なんて、パン屋のような地域に貢献できる仕事をしてなんとかマトモな人間になれるんだ。引き取ってやったうちに感謝しろ」と幼いテアに何度も言った。一方で、魔法でパンを焼かせていることは世間体のため極秘事項としていた。 「テアはいくらからやる?」  キャロルの友人に話しかけられびくりと肩を揺らした。 「ああ、この子お金ないの。働いた分は生活費で帳消しだからってクソ親父が」  賭けに勝ったらしく、手の中の小銭を鳴らしながらキャロルが説明した。 「うわ、かわいそう。奴隷なの?」 「ほんとクソだなキャロルの親父」 「ほんとそうでしょ」  キャロルは実に楽しそうな笑顔を浮かべながら、後ろからテアの両肩に手を置いた。 「だから、テアは賭けられる側で参加しまーす」  フードを剥いで思い切り押し出した。  急に中央へ飛び出したテアは体制を整えられず、地面に両膝をついた。 「え? 何あれ!」 「メガネってやつ? ジジイがするだろ」 「がんばれメガネちゃーん」  テアは混乱し、転んでうつむいたまま顔をあげられず浅い息をした。 「テアの魔法はすごいのよ! ふふ、パンを焼く竈を温められるの!」  笑いが起こる。 「笑わないであげて! この子大雑把な火しか出せなくて、鍋は焦がすし蝋燭は一瞬で溶かしきっちゃうし、竈の火以外任せてもらえないのよ」 「泣けてきたわ。俺メガネちゃんに賭けよ」 「ガスの方が魔法よりよっぽど便利ってクソ親父も言ってたわ。でもそーやって周囲に合わせて魔法持ちの事ボロカス言うくせに、ずーっとテアの魔法はいいように利用してたのよ? なんでかわかる? お金よお金。竈のガス工事は大変だし、燃料の節約になるから! ほんとみみっちい奴! こんな魔法でもあるだけマシなのよ。じゃなければ――」  どうして、とテアは思った。 「――テアに価値なんてないわ」  どうしてそんなことを言うのだろう。  キャロルもかつては魔法持ちだった。同じ部屋で暮らし始めた頃、既に消えかけて頬を撫でる程度の微風しか出せなかったが、キャロルはそれでテアをくすぐったり、父親の目がない時は、テアがつけた竈の火を揺らす遊びを二人でした。しかし、大多数がそうであるように、嫁ぐ頃には魔法を失くしていた。 「(どうしてそんなことを言うの?)」  キャロルはテアを巻き込みたくなくて父親に嘘を通したのではない。おそらくもう一つのテアの推測が当たっていた。しかし――手伝いを頼んでおきながら、父親に歪曲的に「娘より上手い」と言わしめた、その逆恨み。日頃の鬱憤。不満――それを晴らすためにより残酷な仕打ちを考えた。  ここに連れてきたのは慰労などではない。まごころなど持ち合わせていない。  テアを辱めるためだった。テアの持ちうる全てを。 「メガネちゃん怖くて泣いちゃった?」 「大丈夫? レンガを温めるだけじゃだめだよ、動かせる?」  また笑いが起こる。テアは肩で息をした。吸っても吸っても苦しい。眼鏡をしているのによく見えない。おかしい。くるしい。ぐらぐらする。 「(どうしたらいい?)」  キャロルの言いなりになるのがいい? 黙っていればいい? 小麦粉を運べばいい? 叩かれればいい? 竈の火だけ見ていればいい? 火傷をすればいい? 眼鏡を外せばいい? 全部我慢していればいい? 「(どうしたらよかった?)」  魔法なんて持って生まれなければよかった? 「盛り下がんじゃないの。なんでもいいから早くやってみせなさいよ、愚図」  異様に冷たいキャロルの声が、やけにはっきりと聞こえた。 「う」  喉の奥から悲痛な声が漏れた。 「う、うう、うあ ああああ」  俯き跪いたままのテアが叫ぶと火があがった。  しかしそれは、いつもの竈の火とは比べ物にならない、爆発だった。  音と熱風、目をつぶす一瞬の光にある者は悲鳴を上げ、ある者は腕で顔をかばった。  地面は三メートルほど黒く焦げ、吹き飛ばされたレンガは遠く林の向こう側へ飛び、火の粉が林に燃え移った。  眩んだ目がはっきりと見えるようになると、一同は呆然とその光景を見上げた。 「何? なにが?」 「やべ、火事! お前水出せるだろ早く!」 「み、水――」 「ちゃんとやれよ!」 「無理だ火が早い!」 「逃げろ!」  友人たちが転がるように走り出す。驚いて腰を抜かしていたキャロルはそれを見てテアに叫んだ。 「何やってんのよ馬鹿!!」  よろよろと立ち上がり、微動だにしないテアに近付く。 「早くどうにかしなさいよ!」  腕を掴まれてテアは叫んだ。 「触らないで!」  そう言って手を振り払った瞬間、二人の間に眩い光が現れ、すぐに弾けた。 「!?」  それにテア自身が驚いていると、キャロルが木の棒のようにして地面に倒れた。 「えっ? ――」  受け身もとらずに落ちた相手にテアは我に返った。  膝を引きずって彼女の元へ近付き肩を揺らすが、瞼は閉じられたままで反応は無い。 「うそ、うそ、そんな、」  血の気の引いた指先が震えだす。 「死――」  テアの前に突然黒い大きな影が現れた。  火が作るわずかな明かりが、それが人間であることをテアに教えた。  黒い外套を着た人物は跪いてキャロルを覗き込み、彼女の顔の辺りに手をかざした。 「キャロル、死、死んで、わたしが――」 「いや、死んでない」  冷静な男の声だった。その手の平には青白い光が灯っていた。 「気絶魔法だ」  キャロルの顔の前で男の手がひらりと振られると、小さな光が弾ける。  途端に瞼が開いた。  覗き込まれていたキャロルは跳ねるように上体を起こし、驚きと警戒の混じった顔で二人を交互に見た後、テアを指さした。 「テアが全部やった」  そう男に向かって告げるやいなや脱兎の如くして去った。  男が立ち上がる。テアは呆気に取られて地面に座ったままだった。男の顔を見ようと視線を上げた時、思わず叫んだ。 「か、火事!?」  やっと気付いた火事の状態はひどいものだった。 空き地の奥に残る林のほとんどに火が移り、何より――林の向こうに見える教会の三角屋根。そこに飛び込んだレンガが穴を空け、表面に火をもたらしていた。 「どどうしよう、私の、火の魔法? こんな――」 「返還できるか?」  男は特に慌てる様子もなく、テアに向けて言った。 「へん、――何?」 「火を消す、という意味だ」 「あ、あんなのできるわけが、そんな」  会話の間にも火は広がる。男は悠然としたままだった。 「そうか」  動けないでいるテアに背を向けて男は火事に向き合うと、右手を肩の高さまで上げた。  林の炎が揺れた。  その全体は男の動きに従順だった。彼の右手が円を描くのに合わせ宙で一筋の弧となったかと思うと、炎は忽然と消えた。司っていた男の手が、静かに下ろされる。  不吉な明かりは呆気なく失せた。夜はその静寂を、完全に取り戻すことに成功した。  テアはただその一連を口を開けて見ていた。何が起きたか理解できなかったが、ただ 「美しい」  と感じた。それは彼女が生まれて初めて見た、ただ「魔法を持つ者」ではなく「魔法を持ち、それを自在に使いこなす者」の振る舞いだった。  ふと、男が振り向いてテアの向こう側に目を向けた。テアがその視線を追うと、空き地の入り口に人影があるのを見た。爆発と火事で人々が集まってきたのだ。  青ざめたテアは反射的に立ち上がった。 「賭け魔法に万が一関わったら家から追い出すからな」という声が頭に響いていた。空き地を抜けて垣根を乗り越え、足をもつらせながら道に出た。  すぐ隣には低い柵を挟んで線路がある。一寸の間それを見つめてから、道を速足で進んだ。 「どこへ?」  いつの間にかテアの後を追ってきた男が、少し離れた場所から話しかけた。  男の問いかけを無視してしばらく歩き続けた後、テアは急に歩みを止めた。 「……もう、逃げたところで」  髪をぐしゃりと握りつぶしながら、うわ言のように呟いた。 「キャロルが全部言う、私の魔法で火事が、そうじゃなくても、賭け魔法にいた、ベイカーさんが絶対に許さない、教会まで燃やした! もう、戻れない」  哀れな末路を導き出した頭の中はやけに冷静で、涙は出なかった。 「ぶたれる、そうじゃない、そんなのじゃない。追い出される。逃げても意味ない。家どころじゃない、この街にすら――もう、わたしの行くところなんて、ない」  二人の間に、蒸気機関車の走る音が響いてきた。商品を積んだ貨物列車が駅から走り出したのだ。ロンドンの朝に間に合うように。 「……どこにも行けない……」  頭を抱えるテアを、男は黙って見ていた。 「なら私の弟子になるか?」  少しの沈黙の後、テアはガス灯に照らされた男の顔を見た。年齢は自分の倍より下くらいか。 「住む場所を提供できる」  目もとの造形にだけ、角度によっては相手を射竦めるような強さがあるが、冷静な声音と共にその表情には同情も傲慢も何もない。瞳も、それに少し掛かるうねりのある髪も、夜と同じどこまでも平坦な漆黒だった。  処理速度が追い付かないテアが固まっていると――そう調教されたその耳にだけ――遠くからの声が届いた。 「テア!!」 「はい!」  反射で返事をして、しまったと口を手で塞いだ。今のはベイカー氏の呼び声だった。 「(私を捕まえに来た! キャロルがもう話した? 何をされるか――)」 「そうか。行こう」 「え?」  男は感情の起伏を見せぬままテアに歩み寄った。 「え、……え?」  どこかでまたテアを呼ぶ声がした。先ほどより近くなっている。テアは手で口を塞いでから気付いた。 「(この人さっきのを弟子入りの返事だと勘違いしてる? どうしよう!)」 「いたぞ!」  テアから見て線路の進行方向側の道からベイカー氏が顔を出したのと、反対側から蒸気機関車がその黒光りの車体を現したのはほぼ同時だった。足元が振動し、煤の匂いが辺りに漂う。 「ふざけんな、この恩知らず――」  遠くからでもはちきれんばかりの殺気を放つベイカー氏の声は、車輪の音でかき消された。  ベイカー氏に釘付けになっていたテアは、男の動きに気付くと彼を見た。いよいよ車輪音を大きく響かせて列車が迫るなかで、男は線路の柵に近付いた。 「!? あぶな――」  目の前を轟音と共に列車が通過する瞬間、男が右手を宙で振ると、最後尾の車両の連結部で光が跳ねた。連結が外れた貨物車両は急速に速度を失くし、テア達の近くで止まった。  男は柵を超えて線路に入った。テアがあ然としている間に、男が手を動かすとまた光が跳ねて、変形する鈍い音と共に突如車体に人一人が出入りできる程の扉が生まれた。 「テア!!」  最後にテアを追い詰めたのは、ベイカー氏とその身内達が殺気立って彼女を呼ぶ声だった。  男が何者で、その表情は何を考えているのかは判らなかった。テアはただ生存本能で柵を越え、彼が彼女のために開けて待っていた扉へ飛び込んだ。貨物で溢れていたが押しのければなんとか移動できる余裕はあった。  続いて乗り込んだ男の手の動きと共に光が生まれ、左右の壁の一部が音をたてた。出来上がった窓を押し開いて上体を乗りだす男を見て、テアも反対側の窓を少し開けて進行方向を見た。  柵を超え線路に入ったベイカー氏が、こちらに向かって走ってくる。テアは心臓が口から出そうだった。  その時、動力から切り離されたはずの車両がガタンと音を立てて動き始めた。  男が撒いた光が爆ぜて、車輪が回り機関車を追いかけ始める。 「どこに行くってんだ!!」  ベイカー氏は線路に両手を広げて立ち塞がった。徒歩と変わりない速さだった車輪は急速に速度を上げる。テアはつい両手を組んで祈った。何に何を祈っているかはわからなかった。  立ちはだかるベイカー氏に向けて、窓から身を乗り出していた男の手が軽く埃を払うかのような動作をした。 「オ、オオ、なんだア!?」 「お父さん何処行くの!?」  ベイカー氏の周りに光が瞬くと、彼はスキップの如き足取りで線路の外に出て寸での所で車両を避けた。スキップはその後も止まらずベイカー氏の膝を柵に激突させた。  男と呆気にとられているテアを乗せた車両は更に速度を増して走った。  みるみる小さくなるベイカー一家を見て、テアは窓を大きく押し上げると外に身を乗り出した。  強い風がテアのまとまりのない髪を更にかき乱す。眼鏡が飛ばされないように手で抑えた。耐えかねて閉じてしまいそうな目を、精一杯開いてその光景を見た。  所々に置かれた街灯、騒ぎに起こされた家々の窓、住人が持つランプ、闇に浮かぶそれらの光の点が流れ星の群れのように飛んで離れていく。本物の星々がばらまかれた濃紺の夜空はその輝く模様を変えていく。  テアは生まれてからこんな光景を見たことは無かった。これからも、きっと、見ることなどないまま死ぬはずと思っていたそれは、彼女の空想を超えて煌めいていた。  街を置き去りにして――やがて親に追いついた子車両は、再び魔法で連結されロンドンへとその身を任せた。  炎と同じ色をした朝日が昇る、数時間前の出来事だった。 4b70faa9-8a27-47ad-bb8a-ba53398aa733
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