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師弟の契り
瞼の裏に光が射した。
ぼんやりとした意識の中で、そういえばやけに周囲がうるさいことにテアは気付いた。
「(貨物列車の音だ)」
部屋のベッドの上でいつも聞いていた音と判り寝返りを打とうとして、目を見開いた。
「(部屋じゃない!)」
意識がはっきりした途端に、遠かったはずの車輪音が振動を伴って体中に響く。
閉じていた瞼に射した光は車両に取って付けられた窓の隙間からで、その前には男が立っていた。
テアは上体を起こし外套を掴み上げ、鼻まで隠れた。
「おはよう」
飛び跳ねるようにして起きたテアに驚きもせず、起床に気付いた男が悠然と挨拶をした。
――テアは昨晩のことを思い出した。
まるで逃走劇のようにして、男が魔法で動かすこの車両でベイカー家を去った。
車両が機関車を追いかけてすっかり街の明かりが見えなくなった頃、テアは窓から顔を引っ込めた。自分を連れ出した男を窺うと、魔法に集中しているのか窓の外に顔を向けていた。
――そこからの記憶が曖昧になっている。
「(話しかけられなくて、様子を見ようと思って、急に疲れたからちょっと座――まさか、そのまま今まで寝た!?)」
テアが自分の無神経さに驚愕していると男が歩み寄ってきた。
硬直し身を縮めている様子に構わず、彼女の前に静かに片膝をつく。服装はテアが見慣れたウィンフィールドの男たちとは異なり小綺麗で、立襟のシャツは見るからに糊が効いている。愛想は無く無感情な印象があるが、振る舞いに余裕があり紳士然としていた。
「私はオリヴァー・ウィーレベッカ・エヴァンズ。君の名前は」
「……テア……ブライアントです」
テアはずり落ちた眼鏡を直しながら消え入りそうな声で答えた。改めて対峙して気付いたが、自分が小柄という点を除いてもエヴァンズは背が高い。
「テア。私と君は、魔法使いの師弟になる」
テアは言葉への理解が遅れた。
「まず、師弟となるに必要な作法は――」
「あ」
思い出して声を漏らした。
昨晩は色んなことが起こりすぎて師弟の件など頭から抜け落ちていた。彼の問いに「はい」と答えたのは弟子入りを承諾したからではない。目の前の男は勘違いをしている。
「あのっ……そ、それは…………」
明らかな動揺を見せるテアの一方でエヴァンズは無表情のままでいた。
「どうかしたか」
その声音は低く落ち着いているが不思議と通った。一方で、中央に漆黒の瞳が据えられた目元の造形は角度によっては相手を見据え射貫くような強さがある。
「……」
エヴァンズはテアを見つめ続けている。その漆黒の眼差しに耐えて場の流れに逆らうことが、テアには出来なかった。
「い、いえ、なんでも」
「そうか」
返答は淡白だった。顔に感情は見てとれなかったが、まごついた事に内心呆れられたか苛つかれたかしたと想像してテアは恐縮した。
「これは教育機関などではない個人間の場合で交わされる師弟契約、その伝統的な作法だ」
テアの内心に構わずエヴァンズは中断していた話を進め、右手を差し出した。
「君の手を」
テアは躊躇したが友好の意の握手と判断し、恐々ながら手を差し出した。エヴァンズがその手を握る。
「!」
繋いだ手の隙間から光が漏れ始める。
テアが驚いていると、その――青白さの中に少し紫がかった――光が散って消え、エヴァンズが手を離した。開いた彼の掌には鈍い金色の小さな輪が二つ姿を現していた。
金属の表面は滑らかではなく少し歪で、完全な輪ではなく途中で一部が途切れている。
「(指輪?)」
「これは魔法で作成した耳輪だ」
一瞬、考えを読まれたのかと動揺したテアに、エヴァンズは耳輪の一つを渡した。
「互いに付けている間は修行中。互いに同時に外した時が修了のしるし。弟子の君は右耳に、私は左耳に着ける」
淡々と進む話に追いつけないテアはエヴァンズをただ見ていたが、耳輪を装着する彼がこちらに目線を向けた時、目の形が睨んでいるように見えて慌てて真似た。
上手くはめられず鏡が欲しいと思ったが、試行錯誤してなんとか落ち着く場所に装着できて一息つくと、エヴァンズと再び目が合った。
「魔法によって、修了まで弟子の耳輪は外せないようになっている」
「(え!?)」
「修了前に師弟関係を破棄する際は、師匠側が自分の耳輪を外す。その際に両者の耳輪は返還され消える」
言われた意味はよく理解できなかったが、とにかく外せないことだけでも先に言ってほしかったとテアは思った。
「以上が師弟の契り。今後、私は私の持つ魔法の全てを君に授ける」
起床後まどろむ余裕もない展開に戸惑い続けているテアに対して、やはり冷静沈着さを一切崩すことなくエヴァンズは告げた。
昨晩から一貫されている並みの事には動じないという彼の態度に、テアは余裕と威厳を感じて増々萎縮するばかりだった。
二人はロンドン中心地に入る手前で、車両をいったん切り離して線路に降りた。
外はすっかり朝だったが、曇り空のおかげで暗所に慣れた目にもさほどの刺激はない。それよりまだ車両の振動で体が揺れ続けているような錯覚がテアには深刻だった。
二人は線路沿いを少し徒歩で移動した後、馬車に乗った。
「あ……あの……」
汽車から馬車に変わった振動で目を回しながらも、テアは勇気を振り絞って横のエヴァンズに声をかけた。漆黒の目が見下ろす。
「ど、どこへ、これから……」
「住居に向かう前に、私の職場へ寄る」
「(職場?)」
街中を行く馬車の周囲は建物が隙間なく並び、開店の準備を始める人の姿も見える。
車両で目が覚めてから、テアの頭の隅に湧いていた疑念がいよいよ形を成してきた。
「(――私、売られるの?)」
師弟になったらしいものの、今後の展開をその師匠は説明してくれず不信感と不安が募っていた。
そもそも魔法使いの弟子がどういうものなのかすら分からないが、それも建前で、実はロンドンでどこかに売られて働かされるために連れてこられたのではないだろうか、とテアは考えた。
売り先は――まだパン屋のような単純労働ならマシだが――考えるのも恐ろしい。
あるいは、ここまでも全てキャロルの仕組んだ罠で、実は目の前の男に自分が売却済みであったら?
テアは咄嗟に地面を見下ろした。
地面が流れていく速度は思ったよりも速い。馬の蹄の音に合わせて回転する車輪は力強い。飛び降りて車輪に巻き込まれたら、無事では済まないだろうことが想像できる。
だが逃走するなら今だとも思った。男は自分を見張るそぶりもせず進行方向に顔を向けている。
しかし、テアは思い出した。相手は魔法使いだ。
何が起きたのか知れないが、立ちはだかったベイカー氏が線路の外へはじき出されるのを目撃している。徒歩で逃げ切れるとは思えない。逃げて捕まったら、どんな目に遭うのか?
「(どうしよう、どうしよう)」
心臓が早鐘のように鳴った。革張りの座席をぎゅうと掴んだ時、
「お客さん、もうすぐ駅前です」
馭者が屋根の小窓越しにテア達へ声をかけた。手綱が引かれ角を曲がる。
道幅が広くなると建物の高さがより際立った。みっしりと並んだそれらはくすんだ石造りだけではなく、目が覚めるような橙色のレンガの物も目立つ。所々で飛び出す三角屋根が曇り空に映えていた。
食料品や洋服を売る店先の大きなガラス窓の中には整然と商品が並べられ、通りは小さな博覧会のようになっていた。その前を、着帽した紳士淑女が舗装された地面に革靴の踵を響かせて行き交う。
呆けて眺めていたテアは、突如、横から人の顔が自分の頭より上に現れて驚愕した。
それは屋上席つきの乗り合い馬車で、老若男女が詰まった一階席と屋上席が階段で繋がれている。よく見れば自分の乗っているものと同じく馬が牽引しているのだが、見慣れぬテアは一瞬「あれは魔法で?」と勘繰ってしまった。
馬車が行き交う道路では稀に自動車が混在し、更にその間を人々が危な気に縫って行った。様々なものが生み出す音が溢れ反芻し、混沌とした曲を織りなしている。
やがて、テア達の乗る馬車は道路の端に寄った。馬車が止まるとエヴァンズが先に降りて、テアに手を差し出した。その意味がわからずテアは前後左右を見まわしてから理解し、困惑したが、断る勇気もなく恐る恐る彼の手を借りて馬車から降りた。その間もエヴァンズは無表情だった。
テアは目の前の駅舎を見上げた。それはウィンフィールドのものとは比べ物にならないほど大きく堅牢なレンガ造りで、中央の屋根の下には自分の身長の何倍もの大きさの時計が掲げられている。太い柱の間から通勤客が排出されれば、数が多すぎて最早個ではなく曖昧な色の群れと化す。
自分の出てきた田舎町を何もかも上回る都会。五感が溺れそうな情報の波にテアはしばし圧倒されていた。
「(ロンドン! これが、ロンドン)」
「失礼、お嬢さん」
後ろから来た男性が追い越しざまにテアに声をかける。慌てて退いたが、今度は前方から来た男性とぶつかりそうになり、テアは身の置き場を失くした。
なんとか道の端に寄ってから、それまで一緒にいたはずのエヴァンズの姿が消えていることに気付いた。慌てて周囲を見回し群れに彼の姿を探したが、見当たらない。
「(うそ、おいていかれた!?)」
自分が思っていたよりも長い時間、目の前の光景に夢中になってしまっていたのを悟った。独りになり、それまで好奇の目で見ていた全てが急に恐ろしくなった。逃げ出すべきかという思考は何処かへ消え、浮き輪もないまま大海に放り投げられたようで、本当に息が出来なくなりそうだった。
すると、テアの左手にある売店の出入り口から突然エヴァンズが現れた。
「!」
見知った顔を見つけ急に酸素を取り戻した心地がした。
「(よ、よかった……置いて行かれたんじゃなくて……)」
焦る様子もなくエヴァンズが歩み寄ってくる。
「慣れない魔法で、急激に魔力を消費すると一時的に衰弱する」
再会の感動も無く悠々と言われたその内容に、テアは理解が及ばず固まった。
「手早い回復方法は睡眠と、食事を取る事」
無表情なままのエヴァンズが手に持った紙袋を差し出した。テアは展開を整理できないまま咄嗟に受け取ってしまった。
彼が説明したように、テアが貨物車両の中で眠り込んでしまったのは賭け魔法の場で魔法を暴発させた疲労からであり、彼女が無神経だったからではなかった。そして同様に今現在は、実のところ、テアは自分でも信じられないくらい――腹が空いていた。
紙袋からわずかにパンの香りが漂っている。どうやら自分の衰弱を回復させるための「食事」が紙袋の中に入っているらしいと、テアはなんとか理解できた。
エヴァンズが踵を返して駅舎の奥へ進む。テアは追わずに立ち尽くしていた。
離れた二人の隙間をすかさず人々が行き交い、一瞬エヴァンズの背中が視界から消える。テアは中身がいっぱいに詰まった紙袋を覗いた。サンドウィッチが見えた。
「(何を考えているのか、わからない……けど、悪人では、無い、のかも……)」
感情の起伏を見せない態度が理解を困難にしていたが、少なくともそう感じた。
「――あの、あの」
エヴァンズが振り返った。
「あなたは、その」
テアが意を決して口を開く。
「あなたの職場というのは……一体、何なのですか」
少しの距離を開けたまま、その場でエヴァンスが答える。
「学校」
テアの目が丸くなった。
「学校? あなたは、先生なのですか?」
「ああ」
どこかのホームから、発車のベルが鳴り響くのがテアの耳に届いた。
正規の鉄道料金を支払って汽車移動を終えると、テアとエヴァンズは再び馬車に乗った。馬車に乗っている間テアが眺めていた街並みは、ロンドンほど人も建物も密集していないが十分栄えており、色鮮やかに見えた。店先で客が談笑するパブの窓辺には花々が溢れそうに咲いている。
しばらくして、二人が乗る馬車の前方に立派な門が姿を現した。
「(LIBRA?)」
門の壁にはめこまれた青銅の紋章に、その文字と天秤の図があるのをテアは見た。
「エヴァンズ先生、お疲れ様です」
木製の小屋から門番が顔を出し挨拶するのに、エヴァンズも帽子を軽く取って応える。
門を通過し木々に囲まれた道を抜けると大通りが現れた。その左右と正面に重厚な校舎が構える。少し青みを帯びた石造りの壁には所々に蔦が這い、窓や柱が装飾的な凹凸を与えている。テアは自分が住んでいた街の教会を思い出したが、規模はこの校舎の方が比べ物にならぬほど大きい。
中央の校舎の前で馬車は止まった。石畳の上に降りる時、テアは校舎脇の花壇に人が集まっているのに気付いた。大人は女性一人で、十数人ほどいる子供たちは揃いの青いケープを纏っている。
「「「「水よ、花壇に降れ」」」」
口々に唱えて子供たちは手に持つ杖を振った。その瞬間、陽光をキラキラと纏いながら水が降り注いだ。
「! 魔法、あれは……?」
「一年生の授業だ」
思わず呟いたテアは、エヴァンスを振り返った。
「ここの学校の子達は――みんな魔法を教わるんですか?」
エヴァンズは淡々とも冷静とも言える調子で答えた。
「ああ。ここは魔法学校だから」
中央の出入り口から建物に入ると、廊下が左右に延びていた。玄関広間の高い天井には青地に銀が散らばった大きな円盤が嵌め込まれている。
テアが生まれて初めて目にしたそれは星座が刻まれた石製の星座盤だった。暫し呆けてそれを眺めていたが、エヴァンズが廊下を進んでいくのに気付くと慌てて後を追った。駅前でもこのようにしてはぐれたのが想像できた。
師弟は校長室を訪れた。
エヴァンズの後から入室したテアは移動の間すっかり忘れていた眼鏡を取り、外套も脱いでいる。中央奥の立派な机には男性が着席しており、彼にエヴァンズが挨拶しているのを緊張した面持ちで見守っていた。
「急にお時間を頂き申し訳ありません」
「いえいえ、それよりエヴァンズ先生は今日はお休みを取られていたんじゃ?」
「はい。ですが、弟子を取った報告に」
「なんと!」
エヴァンズは礼儀正しいものの校長相手にも悠々として愛想は無い。一方で校長は表情をくるくると変えた。
「急に? いやめでたいですが、そんな急――いや、めでたい。めでたいですな。彼女が?」
「はい。テア・ブライアントです」
校長は咳ばらいをしてから、テアに向けて凛々しい顔を作った。
「黄道十二宮会第七領・リーブラ魔法学校の校長、ハロルド・ガーディリッジ」
「初めまして。テア・ブライアントです」
「うむ、お会いできて嬉しい」
か弱い声で挨拶したテアにガーディリッジは頷いた。ジャケットの代わりにローブを羽織り、白髪だが老人と言うには多少若々しい。口髭と大きな目は、不自由なテアの視界にも映えて印象的だった。
「エヴァンズ先生の弟子なんて――いつかはあるのかもと思ってましたが、ハッハッハ、今日は良い日ですな」
「ガーディリッジ校長には、師弟申請書の証人をお願いしたいのですが」
「ええ、もちろん構いません。お弟子さんは――うちの関係者ではないようですね。二人はいつからのお知り合いで?」
「昨日です」
「昨日!?」
ガーディリッジの丸い目が零れ落ちんばかりになった。
「はい。昨日。証人になっていただく際は、事務局から書類を――」
「いやいやちょっと待ってください。昨日会ったばっかり? 本当に?」
「はい」
「昨日会ったばかりの者を弟子にするつもりですか? 本気で?」
「既に弟子です」
「な……ええ……だって源脈とかは……えぇえ……」
師弟のそれぞれの耳に光る輪に気付いて、ガーディリッジの声量が弱々しくなった。
「失礼ですがブライアントさんはどこの――お二人の出会いは、どちらで?」
「ウィンフィールドの町で。彼女はそこのパン屋に勤めていました」
「パン。いや、エヴァンズ先生はなんでそんな町に」
「当地で過去に起きた融解事件のフィールドワークをしていました。そこで彼女が接触型の気絶魔法を使う現場に立ち会いました」
「――人体操作が使えると?」
ガーディリッジの表情が急に神妙になる。
「はい。後は純魔法の火とルブの副作用による発光のみ」
「えぇ、そんなに偏ることがあります?」
校長は脱力した。
「彼女は魔力が発現してから十七歳の今まで十分な教育を受けていません。むしろ調整が効かないよう使用状況を固定されていたことが、偏りの原因です」
「それでも自力で気絶魔法に辿り着き、十七歳でそこまでの魔力が残っている……なら、魔力量は決して少なくはない。それでエヴァンズ先生が師匠に――と?」
「はい。彼女の伸びしろ的にも、同じ人体操作属性の師がつくのが良い」
「まあ、放っておくわけにもいかんですからなぁ。魔力の多い体質で、しかも人体操作属性なら、修行して制御できるようになった方が――うーん。そうですか……」
「修行の間は、私の勤務中彼女も在校する事の許可を願います」
「エッッ??」
「基本的に、修行中の弟子は師匠と行動を共にします」
「ああ。確かに、師弟は伝統的にそういうものではありますが――しかし、在校と言っても編入はちょっと難しいですな……ほら、年齢とか」
「我ら側なら可能ですか」
「――学校職員になってもらうと?」
ガーディリッジが情けなく眉間のシワを深くする一方で、テアも予想外の展開に驚いてエヴァンズを見た。
「いやあ、ですが純魔法も満足でないなら、階級も無いでしょう? あなたの教員助手になる資格がない」
「なら、施設管理の補助員であれば、魔力が全くない者でも就ける決まりです」
焦る校長に対してエヴァンズは自分の調子を崩さないでいる。ガーディリッジはいよいよ眉間のシワを深くして額に手を置いた。
「――しかし、〝あの〟エヴァンズ先生のお弟子さんともあろう者を、補助員なんてのにするのは――周囲にも示しがつかないというか、何というかですね……」
エヴァンズは相手から顔を逸らさず、漆黒の眼で見据え続けた。見つめ合う校長の表情にだんだんと苦悶が増し、ついには脱力して、額から離れた手が机に置かれた。
「……お二人が。どおーしてもと言うなら、管理室長に確認します」
「お願いします」
無感動なエヴァンズを見てから、ガーディリッジは迫力ある目をテアに向けた。テアは師匠と校長の顔を交互に何度も見た。
「どおーしてもですね、ブライアントさん!」
「ハイ、っ」
強く名前を呼ばれ、癖で返事をしてしまいテアは口を覆った。
「……はい」
力尽きて、テアは消え入りそうな声でもう一度返事をした。
学校の門を出て師弟はしばらく歩いた。その間、街の住人達が「エヴァンズ先生」に気付くと挨拶してくるので、テアはなるべく彼の後ろに隠れて気配を消した。住人たちは皆朗らかだった。応えるエヴァンズは愛想は無いが紳士然とし礼儀正しかった。
校長室から出て緊張から解き放たれたせいか、テアは歩きながらも少し眠気を感じていた。肝心の話し合いは、テアだけ校長室から出されてしばらく続いた後に「また明日、改めて学校へ来るように」と校長に言われ解散となった。
エヴァンズが自分の職業について嘘を吐いていなかった事をテアは確認できた一方で「どこかに売られて働かされるのでは」という疑念については、妙な形になってきている。校長とエヴァンズの話し合いは知らない単語も混じり、全てを理解はできなかった。
「(これからどうなるんだろう……)」
ずいぶん時間が経ったようにテアは感じていたが、早朝から行動していたため太陽はまだ高い位置にある。時折店や家から良い匂いが漂ってきて「汽車の中であんなに食べたのに」と思いながら空腹を感じた。汽車に乗る前にロンドンを馬車で駆け抜けたのが既に遠くの出来事のようだった。
「(これからどんな事があっても、ロンドンに行けたのを忘れずに生きていこう……)」
と僅かな間眺めた景色をテアが噛みしめていた時、前を歩いていたエヴァンズが急に立ち止まった。
「!」
注意散漫だったテアは危うくぶつかりそうになって止まり、彼の視線の先を見上げた。
閑静な住宅街に建つその二階建ての家は、白い漆喰の壁を木柱の黒色が縞模様のように彩っている。テアの住んでいた街ではあまり見られない形式の古く、しかし手入れの行き届いた家屋だった。
エヴァンズがその家の扉を開けると、奥から足音がこちらへ向かってきた。
「お帰りなさいませ」
出てきたのはエプロンをつけた中年の女性だった。主人を迎える声は冷淡な印象で、姿勢は吊っているように良い。
それまで伏していた視線を上げると、テアに気付いた女性は少し目を丸くした。
「お客様ですか?」
「弟子のテア・ブライアントだ」
「弟子?」
「今日からここで同居して修行をする」
「は!?」
「えっ」
テアが同時に声を上げ、女性が眉を顰めた。
「なんでお弟子さんが驚いてるんですか? ……生活についてなんと説明を?」
「住む所を提供する、と」
「同居と伝えてないんですか!」
テアは呆然としてエヴァンズを見たが、相変わらず無表情で読み取りにくく、わざとかうっかりなのか判断がつかない。
「失礼、ご結婚前ですか? ご家族の承諾は?」
険しい顔をしている女性に迫られテアは怯えた。
「あ、はい、その、家族はいませんから、住んでいた家も――出ましたし、大丈夫です」
何も大丈夫ではないがついそう言ってしまったテアに、女性は一瞬複雑な表情をした。姿勢を正して仕切り直す。
「――出すぎた真似を致しましたブライアント様。ご挨拶が遅れて申し訳ありません。私はこの家に仕えております使用人です。メイジーとお呼びください」
テアは少しだけ安堵した。エヴァンズと二人っきりよりは同性の彼女がいてくれる方が大分ましだった。
「ですが、お部屋はいかがしましょう」
「空いている部屋へ」
「二階の、客室ですか? 今は荷物置きになっておりますが――よろしいので?」
「ああ」
「――かしこまりました。ご案内いたします。お荷物は」
メイジーは荷物を受け取ろうとテアに向かって両手を出した。テアは代わりに両手を胸の前で振った。
「ないです」
「ない?」
訝しげな顔をした後、エヴァンズに顔を向けた。
「そういえばエヴァンズ様も、家を出る時にお持ちになっていたお荷物は?」
「宿に置いてきた」
メイジーは絶句した。
「……どうするおつもりでいたんです?」
「貴重品は身に着けていた」
「服などは、というか鞄も……いいんですか」
「ああ。いい」
メイジーは額に手をやっていたが、エヴァンズは凪いだままでいる。
「(いいの!?)」
テアの家財は全てベイカー家のお古で、自分の持ち物など無いに等しいためテア自身は構わなかった。しかし、自分の荷物を置いてきてそれがどうなってもいいと言うエヴァンズには驚いた。
「(あ、ベイカーさん達が追ってきたから、宿に戻る暇がなくて仕方なく……?)」
師匠は何も言わなかったが、迷惑だったに違いないと恐縮した。
「……とにかく、ご案内します。お疲れでしょうから。どうぞ」
どこか棘を含む使用人の言動に引っ張られて、テアは家の中に入った。中は至る所に木材が使われ、黒光りする階段は上ると軋んで音をたてた。
「こちらがお部屋ですが……」
メイジーは扉を開けた。テアは中を覗いたが暗くてよく見えない。
「ウッ、埃っぽい」
そう言って部屋に入ったメイジーがカーテンと窓を開けた。
「――!」
外の光が入り部屋の様子を見たテアは、思わず息をのみ口を手で覆った。
それを見たメイジーが主人に非難の声を上げた。
「ほら! 客室とはいえ物置代わりにしてた部屋なんて、若い女性は気味悪がりますよ。せめて前日に仰っていただければ私が掃除なりなんなり……」
テアは焦った。
「あっ、違います、あの、暖炉が……」
部屋は、木製の床の所々に本や大きな箱が積まれていたものの、うっすらと模様の入った壁紙が、ガラスの照明が、机と椅子が、そしてテアにとって何より、暖炉があった。
「暖炉がどうかしたか」
「蜘蛛か何かいましたか、鼠?」
横のエヴァンズが無表情のままで尋ねてきた。一方でメイジーは暖炉を調べ始め、テアは更に焦った。
「いえ、何でもないです。本当です。気味が悪いなんてとんでもないです……本当に。あの、素敵なお部屋です」
「そうか」
メイジーは腑に落ちない表情をしていたが、エヴァンズが淡白に切り上げたので、三人は部屋を出て居間へ向かうことにした。
実は暖炉を見た時、テアは内心飛び上がりそうだった。その瞬間は空腹も眠気も吹き飛んだ。
「(自分の部屋に暖炉があるなんて! 洗い物も早く乾くし、水仕事した後手を温められるし、お湯も冷めない!)」
テアがつい緩んでしまいそうな顔を引き締めていると、廊下を歩きながらメイジーが口を開いた。
「ちなみに、あちらがエヴァンズ様の部屋。あちらは屋根裏の入り口で――あの扉は浴室です」
「よくし……浴室?」
テアが急に足を止めたので他の二人も立ち止まった。
「浴室って、浴室?」
「はい。珍しいかもしれませんがこの家を作った当時の主がお好みだったそうで。ご使用なさる前に、一度ご覧になっておきますか?」
「使――ってもいいんですか? 私が」
メイジーが主人を見て「エヴァンズ様、家の設備の使用については何か?」と確認を取る。
「好きにしていい」
家の主人が言ったその言葉は、テアの今までの生活では耳馴染みのないものだった。
立ち尽くしているテアを見兼ねて、メイジーがわざわざ浴室の扉を開けた。我に返ったテアは勿体ぶるように廊下を進み、その部屋の前に立った。
その瞳がみるみる光を取り込んだ。
「あの、あそこの白くてつるっとした大きなのは……」
「浴槽です」
感情はいよいよ蓋から溢れて、開けた口を今度は手で隠しはしなかった。
「――本当に浴室!」
エヴァンズとメイジーはその時初めて、感動をはっきりと表現するテアを目の当たりにした。
テアはおもむろに中へ進み部屋を見まわした。壁には明るい色調の模様が入り、中央の壁際には白く光る浴槽が鎮座している。
暖炉も無い冷たい倉庫で、冷めた湯に手を浸しながら彼女が夢想した空間だった。
「本当に浴室だ。信じられない、本当に見れるなんて信じられない。ロンドンじゃなくてもあったんだ……浴槽、お湯が沢山入りそう……わあ、蛇口……」
最後の方はうわ言のようになりながらテアは浴槽の前に座り込んだ。それを扉の外から窺う使用人は横の主人に小声で尋ねた。
「あの方、元は何処にいらしたんですか?」
「パン屋だ」
「パン屋さんってそんなに浴室が有難い職業かしら……」
メイジーが首を捻っていると、座っていたテアが横にころりと倒れた。
「!?」
驚いたメイジーが駆けつけ、エヴァンズは無駄のない足取りでテアに近付いた。
「……」「……」
主人と使用人が互いを見た。
「……寝て、ますよね?」
「寝ている」
「普通こんな急に寝ます?」
「魔法による疲労が残っているんだろう」
「はあ……然様でございますか」
この期に及んでのエヴァンズの冷静さが使用人の溜息を余計に深くしていた。テアの安らかな寝息がわずかに響く。
「もう、何もこんな冷たい所で寝ないでもよろしいのに」
二人が見下ろす寝顔は、存外に、まるで暖かい所で眠るかのように満足気なものだった。
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