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男性が立ち去ってから十分ほどの時間が過ぎ去った。おそらく、あの男性が引き返してくることは無いだろう。小さく溜息を吐き、塩生姜のラーメンを盛っていた丼をキッチンペーパーで拭き上げてビニール袋に入れ、それをトートバッグへと納める。
そして、別の丼を取り出し、次のラーメンの準備に取り掛かる。
先程の男性に話してみせた婚約者との下り、あれは嘘だ。私にはこの数年、恋人など居たことは無いし、ましてや婚約などしたこともない。これから恋人など作る積もりなどさらさら無い。そしてこの先、結婚などしないだろう。今宵、この海沿いの遊歩道でラーメンを啜っているのは只の気まぐれにしか過ぎない。明日は恐らく「桜流しの雨」。桜が散り果てる前に夜桜でも眺めてみようという気にはなったが、手ぶらで行くのは芸も無く、そして味気もない。冷凍庫の中に、以前に買い求めた冷凍ラーメンが幾つか有ったので、夜桜を眺めながらラーメンを頂くのも乙であろうと思い、家で下準備をした上で、夜桜を眺めながらラーメンを頂くことにしたのだ。ただ、家の近く、或いは人出が多い場所に行く訳にはいかない。近所で変な噂になっても困るし、また、多くの人からの好奇の視線を集めるのもまた望ましくない。そのため、家から離れていて、そして然程人出も無いであろうこの海沿いの遊歩道にやって来た訳だ。この場所に来ることも、もう二度と無いだろう。
先程の男性にあんな話をしたのは、本当の話をしたところで恐らくは納得しないだろう、と思ったためだ。桜舞い散る月の夜、一人所在無く散歩する若い男など、何か劇的なドラマでも求めているのだろう。恋愛が上手くいかないとか、或いは女に振られたとかで、可哀想な自分に酔ってでもいるのだろう。或いは桜の樹の下に、何か救いでも落ちていないかと夢想などしているのだろう。だから、ネットなどで見聞きした話をそれらしく繋ぎ合わせ、それなりにドラマチックなストーリーを作り上げて聞かせてみただけだ。つい先週に婚約を解消したとでも言えば、興醒めして言い寄って来るようなことも無いだろうと思ったので、それを最初に述べてみた。
とは言いつつも、彼の所在無さげな様子に僅かではあるものの同情をそそられたのもまた事実だ。決して悪人などでは無い、良くも悪くも普通の男なのだろう。普通に無神経で、普通に自分勝手で、普通に弱くて、そして普通に優しい普通の男。だから、「でっち上げ」とは言え、「それなり」の話をした積もりだ。「それなり」とは、女性が男性に愛想を尽かすパターンを幾つか並べた内容、ということ。去り際の彼は、何処か納得がいった感じだった。歩み去る様子を見ても、現れた時よりも意思のある歩き方だったし、背筋も心なしか伸びていたように思う。最近になって女性に振られたけれども、そのことに釈然としていなかったのではないだろうか。
彼が本当に女性に振られたのか、そして振られていたとして、それが如何なる理由であったのか、そんなことは知る由も無い。ただ、私の勝手な想像の通りに失恋していたとしても、恐らくそれは大した理由などでは無いのだろう。
春が来たから、そしてそれに何らかの理由が上乗せされたから。春の別れの理由など、それで十分だ。
ただ、男性からしてみたら、それは釈然としないものなのだろう。何かにつけ合理的な理由を探し、何かにつけ納得出来るストーリーを求める、それもまた男性の性と言えば性なのだろうから。
先程の男性は、私の語った嘘の話を彼の体験に当て嵌めたのではないだろうか。そして、彼なりに失恋の理由に納得が行ったのだろう。それが事実なのかどうかは分からない。ただ、重要なのは、彼が納得できる理由を見つけ、そして渦巻いているであろう億脳から解放されることだ。
あの男性が私の話の全てを理解したのか、私の話全てを心に落とし込み、それを彼の経験に当て嵌めて失恋の理由を理解しようとしたのか、それも分からない。恐らくは、彼にとって受け入れやすい部分だけ「つまみ食い」したのではないだろうか。そして、「つまみ食い」した内容を、彼の中の元交際相手の言動に当て嵌めて、彼なりの整合性のある失恋に至るストーリーを作り上げ、それに勝手に納得したのかもしれない。
でも、そういうものなのだろうし、そしてそれで良いのだろう。
人は自分にとって都合の良いものしか見ようとしない。
自分にとって受け入れやすいものしか取り込もうとしない。
そして、好きに取り込んだ都合のいい材料に基づき、自分にとっての幸せな物語を心の中に作り上げ、その物語の中で安らぎを得る。
そのようなものなのだろう。
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