嘘と祈り、或いは煩悩

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四月も始めの土曜の夜。月が輝く夜だった。 週の初めからの陽気のせいか、街中の桜は一斉に咲き始めていた。 明日は日曜日。予報曰く、雨交じりの暴風雨といった空模様となるらしい。恐らくは「桜流し」の雨。今宵が桜の見納めだろう。このところ平日は忙しく、碌に桜を眺める暇もなかったので、散る前に幾らかでも堪能しようと、独り夜桜見物の散歩に出かける。 未だに手つかずの引っ越し用段ボールが山を為すアパートの部屋を出てしばし歩き、海沿いの遊歩道へと辿り着く。俺はごく最近に職場での人事異動に伴ってこの街に越してきたばかりで、この周囲の地理には不案内もいいところだったが、この海沿いの遊歩道はちょっとした桜の名所だと、アパートの入居手続きをする際に、まだ若くて約款の説明も覚束ない女性の係員から何度もそれを聞かされたものだ。 月の明るい夜だった。冷え冷えとした蒼い光を遍く降り注がせる満月は、微風に水面をやや波立たせる海原に、やや滲ませつつもその姿を艶やかに映していた。海沿いの遊歩道に並ぶ桜の樹々、その枝に群れなして咲く桜の花、その美しさはまさに圧巻だった。薄桃色を帯びた白い花弁は蒼白い月の光を受け、闇の中に浮き上がってくるようでもあり、妖しげな美しさすら湛えているように思えた。海を渡る微風は、墨絵の如く黒々とした桜の梢をやんわりと揺らし、梢から追い散らされた桜の花片は仲間との別れを惜しむかのように、ゆらりゆらりと宙を漂う。舞い散る花片を肩や背に浴びながら、独り遊歩道を歩く。例年ならば、この遊歩道も花見の客でごったがえすのだろう。けれども、花見客はおろか、道行く人も誰一人として見掛けない。昨今の新型コロナ禍の所為なのだろう。ぽつぽつと所在無さげに佇む、無機質な灯りを放つ街灯が、腰掛ける者も無い居並ぶベンチを寒々と照らすばかりだ。その寂寞とした眺めは、転勤間際に俺の身に起きた一騒動、それによってまだ血を流しているような心の傷口を刺激するようにも感じられた。微風が凪の海原に仄かな細波を立てるかの如く、俺の心を憤りや疑問が揺らし始める。その思いを振り払うかの如く、潮風に揺蕩う桜の花々を見遣りつつ黙々と歩みを進める。
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