嘘と祈り、或いは煩悩

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不意に、暖かさを孕んだ香りが鼻孔を擽る。それは仄かな生姜の香りだった。人影も無い、美しくもこの寒々とした情景にはおおよそ似つかわしくない、暖かく優しげな香りだ。その香りは風上、すなわち私の歩み行く方向から漂って来ているようだ。一体、何なのだろうか。湧き出る疑問が俺の歩みを駆り立てる。 10メートルほど先の寂しげな灯りを放つ街灯、その下にベンチが二つ並んでいる。俺から見て奥の方にあるベンチ、そこに一人の女性が腰掛けていた。年の頃は30歳に少し届かないくらいだろうか。俺より少し年上なのかもしれない。背は女性としては高いほうなのだろう。赤と黒のチェック模様の長袖のワンピースをその身に纏っている。緩くウェーブのかかった、背中の半ばくらいまでの艶やかな薄茶色の髪の毛が海風に揺れている。寒々とした街灯の光が照らし出すその横顔は、遠目からであっても芙蓉のような美しさを湛えていることが分かった。そんな彼女は、その傍らの茶色のお盆の上に置いた丼に、ラーメンを盛り付けている最中だった。カップラーメンなどではなく、街中の店舗で頂くような、謂わば普通のラーメンだ。陶器の丼にジップロックから取り出した、恐らくは茹で上げ済みの麺を移し、そこに大ぶりの水筒からお湯を注ぎ込み、麺を温め始める。一頻り麺を温めたら、そのお湯を植え込みの土へと静かに流す。今度は、別の小さめな水筒を取り出して、温めた麺の上へとスープを注ぎ入れる。温もりを湛えた生姜の香りが彼女の周囲を満たしていくように思えた。スープを注ぎ終えたら、次は小さなタッパーを取り出し、その中からペースト状の何かをスプーンで掻き出して丼の中に入れる。彼女を取り巻く生姜の香りがその存在感を増す。恐らく、あのペースト状の何かは摺り下ろした生姜なのだろう。生姜入りと思しき小さなタッパーに再び蓋をし、それを脇に置いた大きめのトートバッグにしまった彼女は、続いてジップロックを取り出す。そのジップロックの中には、茹で上げられた鶏肉が入っているようだ。鶏肉を麺の上に盛り付けることで、ようやく一連の工程は終了したらしい。彼女は丼を載せた茶色のお盆に割り箸とレンゲを載せ、そのお盆を両の太ももの上へと置く。手を合わせ、小さく何かを呟く。割り箸を手に取り、ゆっくりと左右に開く。パキンという小さな音が響き渡る。それから彼女はおもむろに麺を啜り始める。ズルズルという麺を啜る音が小さく響き渡る。桜舞い散る月の夜に独りラーメンを啜る嫋やかな女性。何とも形容し難い情景だ。好奇とも困惑とも形容し難い、そんな俺の視線に気付いたのだろうか。彼女はその頬を動かしながら、ハッとした表情で俺のほうを見遣る。驚いたような表情を浮かべた後、彼女は口に含んだ麺を嚥下し、そして小さく「こんばんは」と口にした。俺は我を取り戻し、「こんばんは」と返事を返す。
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