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取り敢えず挨拶は交わしたものの、何となく気まずい沈黙が俺とその女性の間に横たわっている。そもそも、食事の最中である赤の他人に話し掛けること自体が不躾もいいところだろう。けれども、この場から立ち去る気にはなれなかった。この状況は一体何なのか、この女性は何故、この場でごく普通にラーメンを啜っているのか、そのような疑問が黒雲のように胸中へと湧き上がる。困惑混じりの疑問が私の足をその場に留め置いている。渦巻く疑問が言葉の姿を為し、そして口から迸り出る。「ラーメンを召し上がられているんですね。」と。口に出した直後に思った。随分と間の抜けた言葉だなと。状況そのままではないか、と。しかし、彼女は小さく微笑んで、「ええ、ラーメンです。塩生姜のラーメンなんですよ、都内は浅草にあるラーメン屋さんの。」と、言葉を返してきた。その声色は、楚々といった表現が似つかわしい、ふんわりと柔らかなものだった。思いもよらず柔らかなその口調に、俺が知らず知らずの内に抱いていた緊張、或いは不安は一気に解れたようだ。しばらくの間、彼女がラーメンを啜る合間にちょっとした質問を投げかけ、そして彼女は手短にそれに答える、そんな応酬が繰り返された。何時しか俺は彼女の座っている隣のベンチに腰を掛け、漂う生姜の香りに鼻孔を楽しませつつ、淡々とした、そして楚々とした彼女の声色に聴き入っていた。麺を啜り、鶏肉を噛み締め、そして馥郁たる生姜の香りを湛えたスープを啜る彼女。その姿はどことない気品もまた醸していた。
麺も具もあらかた食べ終えたらしく、彼女はその丼を両の手で捧げるように持つ。丼の縁に口を付け、丼を傾ける。喉を鳴らしつつ豪快にスープを飲み干していく。空になった丼を太ももの上に置いたお盆に載せる。そして、満足げな吐息を吐き出し、放心したような表情を浮かべる。その表情は無邪気さすら感じさせるものであり、それに加えて何処か可愛らしさもまた漂わせるものだった。
ついつい見惚れる俺。
生姜の香り、女性の満ち足りたかのような吐息、漂う仄かな熱。それらの余韻を吹き寄せる微かな潮風がゆるゆると夜の空気へと溶け込ませていく、そのように感じられた。
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