八月十三日(晴れ)

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 ただいま。あら、誰もいないの? どこかへ出かけちゃったのかしら? 部屋の中、綺麗に片付いてるね。和人が一生懸命掃除したんだ。  あ、玄関の音。おかえりなさい。和人だけ? 優太は一緒じゃないの? 「おかえり。優太はね、ばあちゃんち。今日は千佳と水入らずで過ごそうと思って」  そうね。考えてみれば優太を挟まないで話すのは、久しぶり。新婚旅行の翌月に妊娠がわかって、夫婦ふたりの時間は短かったものね。少し痩せた? 「ビール、飲むだろ? 外は暑いもんなあ」  あ、ありがと。江戸切子のグラス、私が上司に結婚祝いでいただいたんだよね。 「千石屋で大学芋買ってきたぞ。酒の当てにこんな甘いもん食べるのなんて、千佳ぐらいだよ。余っちゃうな」  好きなんだもん。大丈夫だよ、優太も好物だから。冷蔵庫に入れて飴が固くなったのも美味しいんだよね。 「先週さ、優太のことプールに連れてったんだよ。もう子供プールは卒業して、浮き輪使って流れるプールで遊んで」  喜んだでしょう? 優太は水遊びが好きだもの。 「そんでさ、迷子になっちゃって。ああいう迷子センターって、両親の名前訊くのな。放送でおまえの名前呼ばれて、たまげたわ」  そっか、両親と一緒っていうのがデフォルトなんだ。 「でもさ、おかげで懐かしいこと思い出した。新婚旅行のシンガポールでさ、空港のトイレから戻ってきたおまえが、逆方向行っちゃって。俺さ、出てきたときから見えてたわけ。おまえが躊躇もしないで逆に行ったの見て、何か用事があるのかなって思ったんだ。五分くらいして戻ってきて、おまえはトイレが混んでたって言い訳したんだ。迷ってたなんて、おくびにも出さないで」  笑われると思ってたんだもん。っていうか、見えてたんなら言ってよ。 「あそこの植物園、また行きたいなあ」  行きたいねえ。優太も楽しむと思う。 「料理のレシピ、ありがとな。頑張って作ってるわ」  放っておくと肉しか食べないでしょ。お野菜多め、果物も必要よ。 「今年はな、夏休みの終わりくらいにキャンプに行くわ。男同士で火を使うのもいいもんさ」  気をつけてね。楽しんできて。 「優太がな、ママは嘘つきだって言うんだよ。おまえ、夏には戻ってくるって言ったんだって? 戻って来ないじゃん、嘘つきって」  嘘じゃないよ、ちゃんと戻ってきたよ。 「戻ってきてるよなあ? ちゃんと姿が見えればいいのに」  そればっかりは、ごめんね。私だって、和人にキスしたり優太を抱きしめたりしたいんだよ。  ゆらめく盆灯篭、真新しい仏壇。私のために新調してくれたものたち。綺麗な花籠には、親友たちの名前が入っている。見えるのに、それへの感謝を伝えることができない。  嘘はついてないんだよ、優太。 fin.
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