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 アルバイトから家に帰ると、机の上に手紙が一通届いていた。  ポストを経由しない不思議な手紙。それを見た瞬間、自分の力を生かせない、単純作業のむなしい疲れが消えていく。  柔らかで破れにくい和紙の質感は、違う『世界』のものだ。 「今日はなにを作れって言われるんだろうなぁ」  俺は心躍らせながら手紙の封を開けた。便せんを開けば、じわり、じわりと、墨がしみこむように文字が浮かび上がる。  この手紙を受け取るような非日常に足を突っ込んで、かれこれ半年になる。  全て読み終えると、便せんが手元から浮き上がる。空中でまばゆく発光し、やがて人一人がくぐり抜けられそうな光の穴に変化した。  俺は本棚から使い古したレシピノート。そして、タンスからコックコートを引っ張り出す。半年前は着るのもおっくうだったそれを胸に抱き、深呼吸をしてから、左腕に付けた組紐のストラップに触れた。  あちらの世界で、唯一のお守りの感触。これがあれば、大丈夫。  俺は、穴の中へ身を投げた。 ◆◇◆ 「(ちゃ)太郎(たろう)の作る菓子は美味じゃのう」  つう、と菓子をつまむ指は色白で、細く美しい。  目の前の和装女性は、赤い紅を塗った唇をゆがめ、満足げに笑う。切りそろえられた肩までの髪の毛がさらりと揺れた。 「見事なものよ。【泣き葡萄】を使った洋風どら焼きは」  壁や襖、調度品に至る全てのモノに、細やかな飾りを付けた和室。  俺は、部屋の主を前に正座し、頭を垂れていた。 「水分を吸ったかすていらのような生地がしっとりして、口の中ではかなく崩れていくのがよい。甘くまろやかな乳……くりーむ、と言うたか? 芳醇な泣き葡萄の実の甘酸っぱさが合わさってなんともいえん甘美さ。腹の底から響き渡るような嗚咽と叫びも、いっそう甘さで引き立つのう」 「ご満足いただけたようで一安心です、雪子(ゆきこ)様」  部屋の主――雪女一族の長・雪子様は、恍惚の表情を浮かべ、感想を述べた。彼女の手には、小さな黄金色の丸いお菓子――実はコレ、半解凍のブッセなる洋菓子である。 「しかし、我らが姫も酔狂な。おまえを喰わぬ代わりに、ここで『供物』となる菓子を作れと契りを結ぶとは」
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