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「心療内科って奴に行って、診断書もらってこいよ」
二十八の秋だった。同棲していた恋人の智樹(ともき)がつまらなさそうに言った。
笑顔の接客がモットーですと言わんばかりの医者がとりあえず休職することを勧めてくれ、自律神経失調症で二週間自宅療養の診断書が出た。
そして安定剤と抗うつ剤を処方された。
この日から明里のゾンビ化が始まった。
この世に薬というものがあるのは、明里にとって僥倖だった。
何でも緊張して腹痛になるのは過敏性胃腸炎であると医者から教えられ、水分を調整する薬が出た。
ストレスで生理が止まると、婦人科でピルを貰うよう勧められた。
会社を休んでいると、体力が余って夜眠れなくなる。そう訴えると睡眠導入剤が与えられた。
これらはすべて明里を助けた。
腹痛が怖くて外出が辛かったのが改善されたし、無意味な動悸に悩まされることもなくなった。
夜、夢を見ずに眠れることがこんなに幸福なことだとは知らなかった。
診断書の診断名は自律神経失調症からうつ状態に変わり、休職は半年に及んだ。
無論いいことばかりではない。
明里の場合、感性が死んでしまった。具体的には本が読めなくなったのだ。
始めは、脳も体も疲れ果てていて、字面を眺めても目が滑るばかりだった。
だが休職して少しするとそれが変わった。字は読めるのだが面白くない。テレビを観ても漫画をめくってもそれは同じで、自分が昔好きだった本を読んでも、何が良いのか分からなくなっていた。
肉体の感受性も死んだ。一部の抗うつ剤には副作用にオーガズム障害がある。智樹とのセックスで達することは前から無かったが、一人で自慰をするときも全くイケなくなった。
性的興奮はするのに達することができないというのは存外苦しく、自分とは無縁の言葉だと思っていたEDという単語が脳裏に浮かんだ。
生理もない。オーガズムも感じない。女として生きていると言えるのだろうか。
だがそんな状態でも、薬がない時代よりはずっとましなのだ。肉体の苦痛も、心の苦しみも、前に比べると格段に小さくなっていた。
薬の味を知った明里は、医者から貰う以外にもドラッグストアで薬を買うようになった。
胃が痛くなれば胃薬を飲み、頭が痛くなれば痛み止めを飲んだ。喉が痛くなれば風邪薬を飲み、だるくて仕方がないときはカフェイン剤を飲んだ。
体は従順だった。薬の効能通りにすぐ効果が出た。効果が得られないときは既定の倍を飲んで、明里は平穏を手に入れた。
こんなに薬通りに動くなんて、もうこの体は生きていないのかもしれない。
真夜中、ベッドの中で真っ暗な窓を見ながら、唐突に明里はそう思った。
ショックだった。だが生理が止まった時よりは動揺しなかった。
安定剤と抗うつ剤が、脳が必要以上に落胆することを阻止している。全ての出来事は薄い紙に包まれてから明里の口に放り込まれるようで、明里の心は薬剤と現実のはざまで、どろどろに溶けて何処かへ消えてしまったようだった。
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