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暗くて何も見えないなんて言っている場合ではない。黒い点と白い輝点で溢れる視界の中、とにかく起き上がろうと腕を伸ばす。
だが腕は鉛のように重く、便座に取りすがることもままならない。
脂汗が噴出し、顔周りの髪が頬にべったりと張り付いた。
まるで口から血と共に魂がごっそり抜けてしまったようだった。生命力とでも言うべきものが、血潮と共に体中を守ってくれていたことを改めて知る。
だが明里は諦めなかった。とにかく便座に上り、床からだと天高くに見えるドアノブに手をかけなければ。
扉を開けて助けを呼ぶ。ただそれだけに全神経を集中する。
震える腕で便座に手をかける。体重をかけようとするが、体が全く起き上がらない。指先が動かないので、手のひらで便座を撫でる。だが手は虚しく便座カバーを行き来するだけで体は一向に起き上がらない。
血圧の急激な低下によるものなのか、頭がガンガンと鐘が鳴るように痛む。
再び吐き気が喉を上がってくる。これ以上血を失ったら、意識が無くなってしまうに違いない。そう思った明里は懸命に喉の筋肉を閉め、血液の流出を阻止する。
口を閉じているため息をすることもままならない。鼻で荒く息をしながら明里はただドアノブを目指す。
生きるんだ。呪文のようにそれだけを繰り返した。
気の遠くなるような攻防の末、便座の上に顎が乗った。もう片方の腕で便座を抱え込み、便座の向こう側まで這いつくばるようにして進む。便座に腹ばいになる形になり、無事反対側まで上半身が移動する。
そこからドアノブまでの距離はほんの数十センチだ。明里は遥かな高みに見えるその位置へ手を伸ばした。
だが腕は全く言うことを聞かない。便座の淵からだらりと下がったまま、まるで屍肉のように沈黙している。
動け。バカ。このやろう。
奥歯を割れそうな程噛み締めて、明里は肉体を叱咤した。
お前は死んでなんかいない。生きた温かい肉なんだ。生きたいんだろ。ならドアを開けて助けを呼べ。叫べ。心の中で精一杯体を励ます。
お前は死んでなんかいないんだから。もう一度そう思い、いや、と明里は訂正した。
私は、死んでなんかいないんだ。
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