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明里は唇を噛むと、ありったけの力で腕を引き上げた。
釣りなどしたことが無かったが、まるで深海で騒ぐ大魚を引き上げる心地だった。
目をつぶり、呼吸を止め、明里は腕に意識を集中した。今までの人生で一番にきばった。頭の血管が切れてしまいそうだった。窒息しそうになりながら、腕を引き上げる。根性だった。
ドアノブに指先が当たる。だが金属製のノブはつるつるしていて、汗で湿った手のひらでは簡単に回らない。何度も何度も明里はノブをひねろうと手首を回した。
開け、お願いだから開いてくれ。祈る様に明里は同じ動作を繰り返した。もはや何かの儀式だった。心臓が脈打つように、踊り子のステップのように、幼子の寝息のように、とにかく明里は粘り強く繰り返した。
生きたいからだった。この肉体を再び日の下へ送り出してやりたかった。
半ば気を失いながら、明里は全身全霊でドアノブを回す。ついに扉が薄く開いた。
扉の隙間から、冷たい空気が入り込んでくる。冥府からの風に似ていたが違う。清新な空気は生の世界へと続いている。
明里は口をぱくぱくさせた。叫べ。助けを呼ぶのだ。
何を叫ぶのか、そんなことは決まっていた。
かすれ声しか出ないこの状況で、呼ぶ相手は一人しかいない。
理由はなかった。幼き日に助けてもらったとか、そんないい思い出があるわけでは無い。幼児の頃の全能感などとは明里は無縁だ。
ただ信頼だけがあった。
肉体は意識よりもずっと多くのことを覚えている。肉体はこの家の中で、誰が最も強いかを知っていた。
野性の勘、もしくは長年の刷り込みだった。この状況で他の誰かを選ぶことはあり得ない。
後でどんな仕打ちを受けても構わない。ただ今は、生きるための選択をする。
「ママ……! ママ……!」
声はか細く吐息のようだった。
普段なら母親はいびきをかきながらぐっすり眠っている。明里の声など届くはずもない。
「ママ!」
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