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だが、この異様な空気を嗅ぎ取ったのか、それとも母親として明里の祈りを聞き届けたのか、いずれにしても彼女は目覚めた。
ぺたん、ぺたん、と足を引きずりながら、廊下を渡って来る音がする。
母親は今この家で唯一明るい遭難船であるトイレに辿り着くと、トイレの壁と明里を交互に見た。
ここで恐慌でも起こして娘に縋りつくような母親なら、明里の運命も随分違っていただろう。
だが母親はそんなつまらない女ではなかった。
今にも息絶えそうに床でのびている娘に向って、ただ一言大声で怒鳴った。
「他に吐き方はなかったの!」
娘の一大事にこうである。明里は心の底から母親を憎んだ。同時に昔の、美しく気高い母親の片鱗を見た気がして愛が湧き出た。
あぁママだ、と明里は思った。まぎれもなく、ママが来てくれた。もう大丈夫、大丈夫だ。
安堵はさざ波のように広がり、明里は深い眠りの淵へとあっという間に落ちて行った。
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