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それから四年半が経っている。心身のバランスを崩し会社を辞めたなどと伝えたら、それ見ろとバカにされるに決まっていた。
明里は布団の中で頭を抱えて悩んだ。
だが結局、スマホを持つと実家に電話をかけた。
要するにプライドの問題だと気付いたからだ。
こんなゾンビ状態の自分に以前と同じような恐怖心など芽生えないだろう。そう高を括り、熟考できなくなっている頭で応答を待つ。
「何! どうしたの!」
母親が出る。開口一番の責めるような口調が怖い。明里は早くも後悔しながら、とにかく事情を話そうと口を開いた。
「ママ。私ね、仕事辞めることにした」
「…………」
母親の沈黙は長かった。明里は徐々に手が震えてくる自分に驚いた。自分でも、まだこんなに母親の事を恐ろしく思っていただなんて、意外だった。
大声で叱咤されると思っていたが、返って来たのは沈黙。それが余計怖くて涙が出てくる。
世の中への恨みつらみが怒涛のように湧いた。ああ、どうして私がこんな目に合わなければならないんだろう。枠からはみ出さないように、他人に迷惑をかけないように。ただひたすらそれだけを努力してきたと言うのに。
『どうした』
電話口から父の声が遠く聞こえる。
定年退職後再就職した父は、平日でも休みの日があるようだ。たまたま家にいたらしい。
『会社辞めるんだって。なんか泣いてるよ』
母親が父と話している。
明里は堰を切ったように流れる涙にとまどい、話すことができない。
「一度帰ってくればって、パパが言ってるわよ」
電話口から届いたのは意外な言葉だった。
「転職先は決まってるの?」
「まだ…………」
「じゃあ再就職して仕事が軌道に乗るまで、一回アパートは引き払った方が楽なんじゃないの?」
「うん……」
「とりあえず、明日一回帰ってくれば」
明里はそう命令されれば頷くしかない。
電話を切り、涙を拭いながら、明里は自分の反応にも母親の反応にも呆然とした。
死んだと思っていた感受性が、まさかこんな風に暴れるとは。
母親の威圧を前にして、生命の危機だと体が勘違いしたのかもしれない。
「お前も、ママが怖いのね」
明里は自分の肉体に向って「お前」と語りかけた。
半年間もほぼ一人で暮らしていたせいだろうか。それとも感受性という心の一部が溶けて死んでしまったせいだろうか。もはや明里にとって肉体は「もう一人の自分」、もしくは「もっとも近しい他人」になりつつある。
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