ミサエの一年後に起きたこと

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 ヨシダ・ミサエは浮気した夫に危うく殺されかけて離婚し、それでひとりになってそろそろ1年近くたつ。1年前のその時の自分を思い出すと今でも身震いがする。それほど恐ろしかったし、助かって冷静になってからも、考えれば考えるほど悲しい思いが胸に迫ってきて、毎日ふと思うと自然に涙を流していた。それで、実家の親やら、自分が勤めている会社の同僚たちやらから、腫れ物に触るように気を使われた。そういう扱われ方がむしろミサエの気重に圧力を増す結果をもたらしていた。  そんなことから1年が過ぎ、殺されかけた衝撃も離婚の苦しみも少しは薄らいできた。もっとも、自分の実家に帰る機会は以前よりも格段に少なくなった。帰れば忘れかけていたものをほじくり返して思い出させられる気がした。親が自分に気を使っているというそのことが肌に痛いほど感じられたからだ。 親にしてみれば心配で堪らないことだったが、ミサエも30才を超えて、もう、一個の人間だ。いつまでも手を取り合って生きていくわけでは無い。いつかはまた助け合うという日が来るのかも知れないが、それはまだ分からない「いつか」のことだと思った。  今年の桜は速めに咲いて先を急ぐように散ってしまい、ミサエはとうとう一度も「真っ直ぐに」桜を見ず仕舞いだった。いつの間にか春が通り過ぎてしまった気がした。花の見頃も気づかぬうちにやり過ごしてしまったが最近は気持ちを落ち着けて仕事にも気が入るようになった証でもあった。  実は一人でお酒を飲むようになった。家で飲むことは以前からあったことだが、外で飲むようになったのだ。そんなに多くは飲まない。居酒屋などに入り、おいしいお酒と料理とを適量いただく。思い出すと、むかしは夫と行った。自分を殺そうとした夫とも1度は少なくとも愛し合ったから結ばれたという事実がある。そういう気持ちが時々湧いたが、それも今は遠い日々に思える。「そんなことがあった」そういう気分だ。  気に入った店を見つけて、仕事の帰りにちょっと寄って軽く一杯の酒と旬の料理をいただく。他人が作る料理は新しい感動がある。おいしい。ミサエはよくそう感じるのだった。自分で料理と作るのは、作っているときから「完成品がどういう味か」という感動が無い。材料を買った時点で味が分かっていることもある。それがとても味気ない。楽しみが無い。それならむしろ、おいしいか不味いか分からない出来合の料理の方が気が利いていると思う。例えあまりおいしくなかったとしても、それ自体が自分を刺激してくれるところがいい。だが今の自分はこのマンションに独り。感動を分け合う相手はいない。感想を一人でしまい込むのはつまらないことだったが、慣れた最近は店の主人も女将も店員も顔なじみになった店があるし、客の顔も見慣れた人がいくつかある。そうなると世界が急激に広がった気がしてきた。こういう店には会社の同僚とは来たくないという気もする。同じ空気を引きずっているとお酒は楽しくないと感じる。自分の思うようにしていたい。  そういう彼女の楽しくなってきた日常にさらに変化が訪れた。行きつけの店に気になる男性が出来たのだ。  この店はテーブルが4つにあとはカウンター席だが、落ち着いた雰囲気の店だ。チェーン店では無い。店の主人の好みで日本酒も洋酒も種類がある。頼めばカクテルも作ってくれる。料理もその時の旨い材料で品書きに無いものを出してくることが多い。  初めて入ったときは怖ず怖ずとしていたが、店の主人も女将さんも店員も気のつく優しい人たちだったのですぐに慣れることが出来た。  この店のカウンターでミサエが飲んでいたとき隣に座ったのが今、気になる男性になった。  男は最初にあったとき、先に店にいてすでに少し酔っていた。その日はほかに客が無くて、じゃあお近づきにといって、ミサエの隣に移動してきて、「わたくしこういうものです」、とポケットから名刺を両手で恭しく差し出し、「どうぞよろしくお願いします」と頭を下げてきた。そんなことをするなんて、相当酔っているように思えたが、話をしてみると案外ふつうの人だった。年は30代半ばくらいと思ったが、自分で「ヨシムラ・トシオ、35才です」と自己紹介してきた。そこでミサエも「わたしはー」というと、彼はいやいやと両手を振ってそれ以上言わなくていいんですよと止めた。  それ以来、この店ではよく顔を合わせるし、合えば隣り合って飲むようになった。 「ヨシダさん、最近顔が晴れやかになったね」  会社でそう言われた。幸不幸は顔に出るものだという気がした。ミサエ自身、最近は人生がまだ楽しいと思えるようになった。だがそれは、ヨシムラ・トシオというあの男性のせいなのかとも思えた。結局男で自分は幸せを感じているのかという単純さが若干落胆を感じさせた。それでも、一緒に楽しくお酒を飲んでお話をしている分にはなんの害も無いはずだ。それが人生のほかの部分にいい影響を与えているのならなおさら歓迎すべき影響ではないか。  そうしてヨシムラ・トシオのことを折りに触れて考えているうちに、居酒屋で会う以外のことも想像を巡らせてみた。しらふで外を歩いたらどんな人間なのだろうという想像をした。だがそうすると、まだ、あの不幸な結婚生活が蘇ってきて「これで我慢しておけば?」と問いかけてくる気がした。そういう臆病な心を持ちながら、逃げ込んで震える猫を笑顔で拾い上げてくれる男性を待っているような気がした。 「自分は誰か、優しい男性に包まれて依存したいと考えているのだろうか。それが幸せと思っているのかな」。そんな風になると、それではいけない。それだからあんな男に殺されかけたのかも知れないと思った。「私に、私を殺そうとした男の、あの顔を忘れさせてくれる男性は現れるだろうか?それは、ヨシムラ・トシオというこの男性だろうか?」。そう思う反面、「まあ、まだ気が早いわ。私は何かに焦っているのだろうか」という反省も湧いた。  ヨシムラ・トシオとは相変わらず上手く行っていた。最もそれは居酒屋の中でだけのことだった。いくら話が弾んでも、このあともう一軒行こうなどと言うことも無かったし、今度外で会いましょうという話しも無かった。居酒屋で会って、居酒屋で別れる、お酒とツマミ談義の関係だった。それでも間近で嗅ぐ男の体臭がトシオのスーツの内側からは漂ってきた。ミサエはトシオが自分の方へ向き直ったとき、それを少なからず楽しみに感じていた。涙の匂いがする、日々同じ後悔が部屋に跳ね返ってグルグル廻っている世界からこうして解放されてきているいう証拠のように思えた。彼は自分をどう思っているだろうかと気になり始めていた。以前にもらった名刺によれば営業マンらしかった。男前と言うほどでは無いが浅黒く引き締まった感じがして、力強さに頼りがいを感じた。髪型もいつも乱れが無く、絵に描いたような営業マンだった。「彼は私をどんな風に見ているだろう」そう思った。  この日は、いつもより店が混んでいた。過ぎゆく春らしいいい陽気に人の心も浮き足立っているのかも知れない。それに春の残り香を感じさせる旨い料理が今日は多かった。  そんなせいでミサエはよく飲んだ。それはヨシムラ・トシオも同じだった。幾つもいろいろの料理を取って分け合って食べた。実に幸福な一刻だった。  ミサエが手洗いに立ちあがった。少し怪しくなった足元にトシオがスッと手を添えてくれた。それは彼がミサエの体に触れた初めてのことだった。  それからミサエが戻り、椅子に座り直すと、入れ代わりにトシオが立ち上がった。彼は客で少し狭まった通路で体を横に向け、「僕もちょっと」といってミサエの肩に軽く手を置いてから店の奥へと入っていった。  ミサエは気持ちが高揚するのを感じた。何気なく自分の酒のグラスを持ち上げ口に運んだ。だが、ミサエの脳裏に微塵の予想も無かったことがその時起きた。聞いたことがある靴音が背後で店の床を叩いて鳴った。 「お待ちください!」  ミサエのグラスは彼女の口の手前でガングレーに鈍く光る手のひらによって塞がれた。ミサエが驚き顔を上げると横に立ってそうしたのは、AR-231号だった。ミサエが契約しているセキュリティ会社所属の特殊介入班の指揮官ロボットだ。彼は以前と同じようにガングレーに輝く合金の肉体に黒いサングラスのような目を光らせて紺のスーツをビッシリ着込んでいる人型高性能ロボットだ。 「あら、隊長さん。お久しぶり!どうしたっていうの?」  ミサエは体に悪寒が走った。この隊長が現れたと言うことは、よくないことが起きたと言うことであり、そしてそのよくないことはAR-231によって未然に防がれたということでもあった。 「お客様。その飲み物には強い催眠効果のある薬が入っています。飲むことはお勧めしません」 「ええ?どうして、そんなことに?」 「薬を投入したのは、お連れのヨシムラ・トシオさんです」 「まさか、そんな?」 「ヨシダ・ミサエ様はセキュリティ契約にプラスして誘拐・拉致阻止特約をご契約いただいております。この中にはボディガードサービスが含まれておりますので、不測の事態に陥る恐れがありましたので、お楽しみの所、不躾ながら介入いたしました。ご容赦ください」 「じゃ、じゃあ、あのヨシムラさんは私を眠らせて拉致しようとしたっていうの?」 「どのような意図を持ってヨシダ様を眠らせようとしたかは定かではございませんが、当然何かしらの魂胆があってのことと推察されます」 「じゃあ、このままあの人を拘束するの?」 「これはすでに犯罪ですので、そうするのが規則となっておりますが」  ミサエは瞳を潤ませ、うつむいて少し考えると、 「隊長さん……隊長さん。今日はあの人を見逃してあげてくれない?」 「見逃すのですか。お客様に間違いなく何らかの危害を及ぼそうとした輩ですが」  AR-231はミサエを見つめていた。ミサエの顔は以前の、夫に殺されかけたときに勝るほど落胆しているのがAR-231の記憶装置の記録の画像比較から見て明らかだった。 「承知いたしました。今回は誘拐・拉致特約を行使なさらないと言うことで処理いたします」  AR-231はそう言いながらミサエの酒のグラスだけは取り上げ、手を伸ばしてグラスの中身を店のキッチンの流しに捨てた。 「では、ヨシダ様。われわれはこれで引き上げますので。ご了承ください」 「あ、は、はい……どうもありがとう」 「どういたしまして。それでは」  AR-231が周囲に目配せすると混雑していた店の客が全て立ち上がりフットワーク軽く足踏みをしながら隊列を組んで店外へ消えた。 「お客さんがみんな、隊員さん?」ミサエが目を丸くして見送った。 「はい。店のご主人、女将さん、店員の方には不自然にならないようご協力いただきました……それでは、わたくしもこれにて失礼いたします」  AR-231が店の外に出るのと擦れ違いに手洗いからヨシムラ・トシオが出て来た。彼は、店の中が急に閑散としたのを感じ取って驚いた顔でミサエの隣の席に戻ってきた。そしてミサエに何か言おうとしたが先にミサエが口を開いた。ミサエはトシオの顔をまともに見ることができず、下を向いたまま声だけは気丈に朗らかを装い、 「今日はちょっと飲みすぎちゃったみたい。これで帰るわね。……女将さんお勘定を……」 「送りますよ、ミサエさん」  ヨシムラ・トシオはまだ「計画」に沿うようにしているらしかった。 「ううん、大丈夫よ。セキュリティサービスの人が来ているから、送ってもらうわ……それじゃ」  ヨシムラ・トシオは店に一人残された。気まずい空気の中、彼がフッとカウンターの上を見ると、ミサエのグラスが空になってそのまま置きっぱなしになっていた。そしてそのグラスの向こうの店の主人の目がキラリと彼を睨み付けて見えた。 「あ、あ、俺も帰るね。ごちそうさま」  ヨシムラ・トシオは、冗談でももう2度とこの店には足を運ばないだろう。  呆然と帰路についたミサエはAR-231に付き添われ歩いていた。 「私、男運が無いのねえ」 「恐らくそのようなことは無いと思います」 「私、あのお酒を飲んでたら、どうなってたのかな?」 「あの男は調べたかぎり前歴はありませんでした。目的はハッキリとは分かりかねますが、どんな人間にも気をつけて損は無いかと存じます」 「そうなのねえ……」 「ミサエ様のご契約にはセラピーサービスも付いておりますので、どうぞご利用ください」  ミサエは歩きながら道に顎先から伝った涙をひとつ落として、それが過ぎ去る春の月の光を屈折させて光った。 「よろしければ、これを」  AR-231はポケットからハンカチを出してミサエに差し出した。ミサエはそれを受け取り、 「これも会社のサービスのひとつ?」 「これはあなたに、わたくしからのサービスと言うことで」
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