第2話 木犀の香りを纏う

1/1
前へ
/14ページ
次へ

第2話 木犀の香りを纏う

「――なんで金木犀なんですか?」  放課後の実験室で少年は先輩に問う。  目の前にあるオレンジ色の花をビンに詰めながら、ふと浮かんだ疑問だった。 「銀木犀とか、別の花とかでも良いと思うんですよね。香りが良い花はたくさんありますし」  彼らは香水を作ってた。といっても、花を詰めた瓶にエタノールが主成分の液体を混ぜて蓋をした後アルミホイルをかぶせて終わりという、いわゆる香水もどきなのだが。  既に自身の鼻はバカになってしまったようで、部屋いっぱいに立ち込める花の香りは感じない。だが、時折、思い出したかのように鼻腔をくすぐる甘い香りに貌をしかめる。 「そうねぇ、別に銀木犀でも良かったんだけどねぇ」  そう言って先輩はおもむろに制服のポケットから何かを取り出した。 「これ、銀木犀の香水なんだけど。後輩くん、ちょっと吹きかけてみて?」 「ここだと匂い分からなくないですか?」 「休憩ついでに廊下に出ようか?」  そう言われて教室の外に出る。  廊下に出ると甘い香りとは別の、形容しがたい香りがした。  ドロリと甘い空気ではなく、人が居ない校舎独特の澄み渡った空気に、一瞬、息がつまりそうになるも、徐々に緊張がほどけていく。  バカになっていた鼻も、他の刺激で自身の役割を思い出したようで、やがて様々な香りを脳に届けてくる。 「――あの教室、かなりすごいことになってたんですね……」 「慣れちゃうと分からないものよね」 「ですね」  しばらく教室の外で先輩と話をして、本題に戻る。  手渡されたスプレーを試しに手首に吹きかけてみたが、特に香りを感じなかった。顔を近づけてようやく、金木犀に似た花の香りを感じることができた。 「香り飛んでません?」 「まぁ、一年前に作ったものだからねぇ。ちょっと飛んでるとは思うけど」 「それにしても弱くないですか」 「そうなの。銀木犀は金木犀より香りが弱くてね。木に花をつけている時も、その木に近づかないと分からないくらいには弱いの。だから香水にするとどうしても近くで良く臭わないと分からないってなっちゃって」 「確かに、それなら金木犀の方が良いですよね」 「そうなの。あとは金木犀や銀木犀の効能が目的に沿ったものだったからちょうど良いのよね。去年作ったら好評だったし」 「目的?」  なんのことだろうと思い、尋ねようとしたところで、廊下を走る音が聞こえてきた。  少年と先輩は音のする方にちらりと視線を向ける。  あまり足は速くないのか、思っていたよりも近づく気配がない。ただ、こちらを目指していることは、何となく分かった。  そうでなければ、授業以外で基本的に使われることのないこの校舎に、人が寄ることはないだろうから。 「あ、あの!先輩!」  やって来たのは女生徒だった。少年と同じ上履きを履いているところから、同じ一年生であることが分かった。彼女は息を切らせながら先輩の方へと駆け寄る。  かなり長い時間走っていたようで、先輩のもとへ辿り着くな否や、ぺたりとその場に座り込んだ。 「大丈夫?」 「あ、は、はい。大丈夫です!」  先輩に手を貸してもらいながら、女生徒はなんとか立ち上がった。  その後しばらく迷ったように視線を落とす。どうやら勢いでこちらに来てしまったようだ。 「あ、あの、先輩。こんなお願いするのはおかしいと思うんですが……」  そう言ってから、また黙りこくる。少年はなんの相談か大体のことは予想できた。この手のお悩み相談は良くあるのだ。 「大丈夫。オレも先輩も変な相談って笑うことはしないから」 「後輩くん、イッケメーン」 「茶化さないで聴いてあげてください」 「そうね。お悩みは何かしら?なんでも相談に乗ってくれて良いのよ?」  先輩は女生徒に笑いかける。  その笑いと言葉が、人によっては、悪魔の囁きのようにに聞こえるだろう。それほどまでに先輩の言葉は自信に満ちており、笑顔はどこか狂気を孕んでいる。 「なん、でも?」 「えぇ、なんでも相談に乗ってあげる。望み通りのもができるかは分からないけどね」  先輩は言う。文字通りなんでも彼女は相談に乗ってくれる。だからこそ恐ろしいのだ。常識も物理の法則も、この先輩の前では通用しないから。 「――どうしたら、きれいに痩せられますか?」  少女は促されるままに先輩に質問をする。  女生徒はふくよかな見た目がコンプレックスだったらしい。ぽつりぽつりと語り始める。 「私、昔からこんな見た目で。でも、きれいになりたくて……。運動とかも苦手で、うまく痩せられなくて……。そしたら部活の先輩が教えてくれたんです。先輩に相談すればきっとなんとかなるって」 「そう」 「私、どうしたら良いと思いますか?どうしたら、痩せることができますか?」  生徒は吐き出す。悲願を、嘆きを。  決して努力をしなかったわけではない。だがうまくいかなかった。その事実が、過去が、余計に彼女の自信を奪い、努力への道のりが遠退いていく。  こうして先輩のところへ、非科学的で非常識な方法を求めるくらいには、彼女は追い詰められていた。  少年はなにも言わない。彼が言ったところで何かが変わるわけではないのを知っている。痩せたい人間に痩せなくても十分かわいいなどと言ったところで、意味がないことを知っている。だから、少年はなにも言わず、女生徒を見つめ、その後先輩の方へと視線を向ける。  方法があることを確信して。  彼女の望みが叶う方法を、どう提供するのかを。  先輩は少年の視線に気づいたらしい。同じく少年の方へ視線を向けて笑う。  そして女生徒の方へと向き直り、ポケットから何かを取り出した。 「去年作ったものだから、まだ効果があるかは保証できないけど」  そう言って、小さな香水の瓶を彼女に手渡す。 「ごめんね。今年の分は今作っているから二ヶ月ほど待たないと渡せないの。もしこれで効果が無かったら、二ヶ月後にまた私たちのところに来て」  それは金木犀の香水だった。少し離れた少年ところにもあの甘い花の香りが漂ってくる。  先輩は女生徒に使い方を簡単に説明して、「頑張ってね」と言って笑った。女生徒は何度も頭を下げながらお礼を言う。  しばらくして女生徒が去った廊下は、静寂が辺りを包み込んでいた。いつも通りの、人気のない廊下に少年と先輩だけが立つ。 「きれいに痩せれる、がこの香水の効果なんですね」 「正確には望んだ美貌を手に入れる香水、かしら」  金木犀の香りは食欲を抑える効果があるらしい。  また、ヨーロッパでは潜在意識を高め、願いを叶える香りであり、木犀の木は桂花と呼ばれ、漢方などに使われる。先輩から教えてもらったことをまとめるとこのようなことだった。 「花言葉も考えれば銀木犀の方が良い気もしますが」 「『あなたの気を引く』だと、どうしても限定的になっちゃうしね。それに、銀木犀の香水の効果はそれに合わせてもう作っちゃったし」 「え……」  では先程吹きかけられた香水にも、何か効果があったのだろうか。特に変わった様子のない自身の身体を窓越しに見ながら先輩の言葉を待つ。 「さて、休憩もそろそろおしまいにして、続きに取りかかりましょうか」  何かを含めたような笑みを向けながら、先輩は作業の続きを促した。 *****  香水作りの作業から一週間が経過した日のことだった。今日は特にやることもないからと、少年は先輩と帰ろうとしていた時、見知らぬ女生徒に声をかけられた。 「あの、先輩」 「あら、あなたは」  先輩の知り合いだろうかと思い、先輩から一歩離れる。手足は細く、それでいて不健康な痩せ方をしているわけでもない、美しい顔立ちをした女生徒ははにかみながら先輩に頭を下げる。 「ありがとうございました。先輩に相談して良かったです」  ふと、生徒の名札を見ると見覚えがあった。一週間前に相談に来た女生徒だ。 「ん?」  少年は少し困惑した。以前の面影を感じなかったからである。 だがよくよく見ると顔立ちは確かにあの女生徒であった。急激な容姿の変化に、気づくのが遅れたのだ。 「その様子だと、まだ効果はあったようね」 「はい!本当にありがとうございます!」  女生徒はお礼だと言って、紙袋を先輩に手渡す。  先日テレビで見たので少年は知っている。その紙袋は人気すぎてすぐに売り切れてしまうと言う高級菓子店のものだ。 「もらった次の日に効果は出たんですが、服が体に合わなくなっちゃって……。制服を買い換えるまでに時間がかかってしまって……」 「あら、それはごめんなさい。悪いことしたわ」 「い、いえ!そんな!それよりも本当にありがとうございました!今は服着るのも楽しいですし、本当にうれしいんです」 「ふふ、それは良かったは」  それからしばらく女生徒は頭を何度も下げてお礼を述べた。先輩は嬉しそうにお礼を受け止め、どこは不調はないかと聞く。  気が付けば閉校時間のチャイムが鳴るまで二人は話していた。  女生徒はチャイムの音に慌ててお礼を言いつつ去っていく。先輩と少年は既に人気のなくなった生徒用の玄関で彼女を見送った。 「――あんなに劇的に変わるもんなんですね」 「きちんとなりたい自分をイメージしていたからなんでしょうね。イメージが湧かなかったらもう少し時間がかかっていたはずだから」 「ちなみに効果ってどのくらい続くんですか?」 「そうねぇ、何もしなければ一年くらいかしら?」 「つまり体型維持なんかの努力をすれば、一生涯あの美貌を手に入れたも同然と……」 「そういうことになるのかしら?」  恐ろしい話だとも思う。努力をする必要はあるが自信の望んだ容姿を一回の香水の入手で手に入れたのも同然なのだ。  よくよく考えれば自分より上の年代の生徒は、美男美女が多い。単純に顔の良いに生徒が多いだけだと思っていたがどうやら違うのではないのかと、少年は考える。 「二ヶ月後は忙しくなるわねぇ」  誰に言うでもなく先輩はそう呟いた。 *****  二ヶ月後。  少年は地獄を見ていた。  どうやらあの女生徒は見事広告塔の役割を果たしてくれたらしい。事情を知らない一年生の間で大きな話題になった。  既にあの香水の効果を知る上級生は、彼女の話で今まで以上の需要が発生することに焦ったのか、出来上がる前から予約を取ることができないかと相談に来ていた。  去年は女性からの需要がほとんどだったらしいが、今年は男性からも欲しいと相談を受けることが多かった。  「望んだ容姿」に変えてくれるのだ。流石に身長が劇的に伸びたり、骨格を変えるのにはかなりの時間がかかるが、それでも数ヵ月で変えてくれる。去年、数人の男性が好奇心で使ったことで思わぬ需要を発掘したらしい。  かなりの数を作ったが足りるかどうか分からなかった。それを先輩が正直に言ってしまうものだから、生徒同士で争いが勃発した。  いや、生徒だけではない。  教師からの需要もかなりあった。困ったことに生徒より財力がある分、金を積んで頼み込んでくるのでたちが悪かった。  とにかく早い者勝ちとでも言うように、我先にと先輩に人々がやって来た。少年が先輩と良く一緒にいることを知っている者は、少年の方に頼み込んできた。そして、誰かと誰かが同時に彼らのもとで鉢合わせ、喧嘩が勃発するのである。これを毎日見せられるのだから、少年はたまったものではない。  最終的に、数は十二分に足りるだけあった。あれだけの量を作ったのだから当然と言えば当然で、だからこそ先輩の足りるかどうかの一言は余計だったと恨み言をこぼすはめになった。 「容姿にこだわる気持ちはわかるけどほどほどにして欲しい……」  あまり使われていない校舎の教室で、少年はぐったりとしながら呟く。  先輩はそんな少年に笑いながら労うように飲み物を手渡してきた。 「ごめんね後輩くん。でも、助かったわ。ありがとう」  持ってきた飲み物はイチゴミルクだった。しかも紙パックで冷たい方。寒い教室で飲むにはいささかどうかと思う選択である。だが、少年はイチゴミルクが好きだった。自身の好物を覚えていてくれたことと、本当に労いの気持ちがこもっていることに、少年は嬉しそうに紙パックを受け取った。 「――そういえば、金木犀の香水の効果は、痛いほど分かったんですけど、銀木犀の方はなんだったんですか?」  紙パックにストローを指しながら、ふと浮かんだ疑問を先輩に問う。  「あなたの気を引く」という花言葉に合わせて作ったという香水の効果は、少年には分からなかった。吹き掛けられてしばらくしても効果のほどが見えなかったからである。 「最初は惚れ薬のようなものかと思ってたんですが違うみたいですし」 「あら、後輩くん、そんなこと考えてたの?かーわいい~」 「茶化さないでください」 「ふふ、そうね。金木犀が「自分の望んだ容姿」でしょ?それと対のようなものよ」 「対?」 「‟その人が想う相手の望んだ容姿になる”こういえば分かりやすいかな?」 「それって……」  少年は紙パックのイチゴミルクを飲みかけのところで固まる。  変わらなかったのはそれはつまり、変わる必要がなかったのだ。だから効果がでないように見えただけなのだ。 「あなたは変わらなくて良いのよ。後輩くん。私は今のあなたが気に入ってるんだから」  先輩は妖艶に笑って少年へと囁いた。
/14ページ

最初のコメントを投稿しよう!

9人が本棚に入れています
本棚に追加