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『私、夏って好きです。』
だから、無理矢理話を変える。
「へえ、初めて聞いた。」
『海行くし旅行行くし、夏祭りも花火大会も、』
指を折り、入るかも分からない予定を上げていく。
世の女性の大半が好きであろうイベントたちは、恋人たちものと言っても過言ではないだろう。
恋人がいたのなら、もっと夏は楽しいのだろうか。
今ですら、そこそこに、結構、楽しいものなのに。
「遊び人だねえ」
『若いって言ってくださーい。』
楽しみを沢山あげてみても、有馬さんからの「一緒に行こう」はもらえない。
無論、私も、言えない。
外でデートする関係ではないと重々分かっていて、私がそれを受け入れているのだ。
「あ、知ってる?オフィスから花火見えるの。ちーちゃいけど。」
『誰かに聞きました。でも私、残業したくないのでちゃんと会場から見ます。』
「は〜、言うね。もし今年、世良が残業になったら残業組で見ような。」
どうして。
それは、デートでもなく2人ですらなく。
優しい約束の皮を被った、狡い線引きだ。
『やですよ、会社から見る花火なんて、絶対。』
わざわざ言わなくても良いのに、なんて有馬さんを責めるようなことを言ってはせっかくの時間が台無しになってしまうと思い、またも言えないことが増えてゆく。
悔しくない。
でも、じゃあ何故、微妙な気分になるの。
思考が濁る脳内に、矢野がチラつく。
そうか、こんな気持ちになるのはきっと、最近彼の「無垢な好き」に当てられたからだ。
有馬さんも矢野も狡い。
人に好かれたり、好きになったり、私だって…、
いつの間にか握っていた拳がどんどん強くなって、爪が食い込んだ痛みでハッとする。
新鮮な息を吸おうと空を見上げたら、星たちが囁き合うように煌めいていた。
でも、綺麗ですねって有馬さんには教えなかった。
だって彼の目は、雨の日の濁った水面のように揺れているから。
『…やですよ、』
「ん?ごめん、聞こえなかった。」
勿体無い夜だ。
こんなにざわつく思いをするなら、1人でコテージから出てこなければよかった。
心の中だけで嫌な思いの全てを有馬さんのせいにして、私は当たり障りのない部下としての表情で微笑み続けた。
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