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ベッドの横の椅子に座って、3階の窓の桜の散るのを見ていた。
くるくると舞う花びらが、風の在りかを教えてくれる。
その風に、花びらの1枚でもいいから、あたしのところに運んでくれないかな、なんてお願いしてみる。
「やっぱり、無理か。ごめんね、変なお願いしちゃって。」と、見えない風に向かって、少し笑ってみた。
この老人施設に、夫の文一郎が入って、もうすぐ2年が経とうとしていた。
和子は、ベッドの文一郎を見ることもなく、左手の指輪を触りながら、桜の木の下で走り回る男の子を、優しい目で追っている。
そして、ふと、指輪に目を落として、ため息をついた。
「あなただけを、一生、愛し続けます。」
それが、あなたのプロポーズだったわよね。
「うそつき。」
なんて、そんな愚痴にも似た弱音を文一郎に向かって呟いた。
でも、文一郎は、ただ天井を見ているだけだ。
文一郎は、70歳ぐらいから認知症が出始めて、たった5年あまりで、自分の名前さえ言えないぐらいに、症状が悪化していた。
和子の事も、今では、誰だか判断が出来ない時間がほとんどだ。
和子は、指輪を、そっと抜いてみた。
その裏に刻印された「2KwEL」の文字。
あなたと、指輪を買いに行った時に、あなたが、どうしても、この文字を刻印したいって言ったのよね。
だから、どういう意味なのって聞いたのよね。
そしたら、「to KAZUKO with Eternal Love」っていう意味だって、得意げに話してたよね。
この指輪に、あたしへの「永遠の愛」をこめてくれたんだよね。
うん、あたし嬉しかったよ。
素直に、嬉しかった。
でも、そんなことも、あなた覚えてないんだもんね。
それにしても、老けたねえ。
どうして、こんなことになっちゃったんだろう。
罰が当たったんじゃないの。
あれは、あたしが40才ぐらいの時だったかな。
あなた、あたし以外の誰かと、付き合っていたんでしょ。
あたし、知ってるよ。
知ってるって言っても、まあ想像なんだけれどね。
毎週、金曜日は、残業があるっていって、いつも帰りが遅かったよね。
でも、その金曜日に限って、何故か違う匂いがした。
あなたの襟元というか、ううん、身体全体から、違う匂いがしたのよ。
でも、香水の匂いじゃないの。
香水なら、あたなたも、バカじゃないから、消して帰ってくるよね。
でも、香水じゃない。
なんだったんだろう、敢えていうなら、そうだ、友達の家に言ったら、その家の匂いってのがあるでしょ。
何となく違和感を感じる匂い。
別に臭い訳じゃないけれど、自分の家の匂いとは違う匂い。
そんな感じの匂いなんだ。
あれは、その人の家の匂いだったのかしら。
家の匂いが付くわけないよね。
じゃ、その人の匂い?
あたし、その匂いが耐えられなくて、あなたがシャツを脱いだら、すぐに漂白剤に浸けていたのよ。
でも、本当に、あなたは、あたし以外の人がいたのかしら。
すべて、あたしの思い過ごしだったのかしら。
その時は、あたし本当の事を知るのが怖くて、あなたを追及することが出来なかったのよ。
今から思えば、特別な人がいたのか、いなかったのか、だけでも聞くべきだったのかな。
それとも、どこの誰かまで、どんな風に付き合ってたのかまで、追及するべきだったのかな。
でも、そんなこと意味あるのかしら。
追及して、誰かが解ったとして、じゃ、どうするのよってことを、あたしが決めなきゃいけないのよね。
あなたが悪いことをしているのに、悩まなきゃいけないのは、あたしなのよ。
そんなのダブルで、ずるいじゃん。
知って、それで、あなたも、その人も許すのか。
2人とも許さずに、あなたと別れるのか。
それとも、あなただけ許して、その女には、何か仕返しをしてやるとかね。
って、それって、あなたが最終的に、あたしを選ぶって、そう勝手に思い込んでいるだけなのかもね。
あたしが決断を下したら、あっさり、あなたは、その人の方を選んだりして。
あははは。
あなたが、浮気をしたかどうか、その真実さえ判然としていないのに、勝手に復讐したり、あなたに捨てられたり、そんな妄想、意味ないよね。
嫌な臭いは、1年ぐらいで、気にならなくなったから、きっと、別れたんだろうなと思って、それからは、もう忘れたことにして暮らしてきたけれど、本当は、どっちだったんだろうね。
「ねえ、あなた、本当は、どうだったの?」
そんなことを聞いても、もう文一郎は、忘れているんだ。
忘れているってことは、文一郎の中では、もう、その時の女も、覚えてないってことだよね。
それって、その人も、もう存在しないってことだよね。
覚えてないってことは、存在しないってこととイコールだもんね。
ははは、どうよ、その女。
って、名前知らないから、女って言っちゃってるけど、あなたのことよ。
文一郎の中では、もう、あなたは存在していないのよ。
ねえ、寂しいでしょ。
あなたは、この世にいない。
「ザマーミロ。」
なんて、文一郎の中の中にいるか、いないか、知らない女に向かって、吐き捨てるようにいった。
って、また浮気したことになってるね。
本当の事は、分らないのにね。
もしよ、もし、浮気してなかったんだったら、ごめんね。
でも、本当は、してたんでしょ、ねえ、あなた。
でもさ、よく考えてみると、あなたの中に、あたしは、存在しているのかな。
昨日だって、珍しく起き上がったと思ったら、あたしの顔を見て、「茉莉子、来てくれのか。」だって。
あたしの名前も忘れちゃったんだね。
あれは、ちょっとショックだったよ。
あたし、なんで、ここにいるんだろうって、泣きそうになっちゃった。
あ、そうだ。
その女、茉莉子って名前なんでしょ。
だから、あたしを見て、茉莉子って言ったんだ。
絶対、そうだ。
いやいや、ちょっと待って。
ということはさ、あなたの頭の中には、まだ、その茉莉子って人が存在する訳なの?
だって、名前を憶えているんだもん。
それ、ちょっと悔しいよ。
それに、あたしの名前を忘れたってことよ。
あたしの顔も忘れたんでしょ。
忘れたってことは、あなたの頭の中に、あたしが存在しないってことなのよ。
ねえ、あたしは、ここにいるんだよ。
ちょっと聞きたいんだけど。
あなたの頭の中に、この指輪のことは、存在するのかな。
もう、忘れちゃったのなら、あたしたちの結婚生活は、なんだったの。
あたしたちの今までの生活で、何か覚えてることを言ってよ。
ひとつでも良いから言ってよ。
、、、無理か。
あなたの今の虚ろな目を見ていると、きっと覚えてないね。
あなたが、あたしにプロポーズしたこと。
その時、どういう気持ちだったか。
結婚して、子供が出来ない時に、ふたりで悩んだこと。
勤めている会社が、営業不振で倒産した時に、あなたが失業したのに、あたしもハローワークに付いて行ったよね。
あ、そうだ。
5年目の結婚記念日に、ちょっと高級なイタリアンレストランに行って、メニューが読めなくて、前菜を4品も頼んだんだよね。
あの時、可笑しかったよね。
あははは、今でも思い出すと、笑っちゃうんだ。
ああ、楽しかった。
でも、それ覚えてる?
そんなこと、ひとつでも覚えてくれていたら嬉しいな。
でも、忘れているよね、きっと。
「ねえ、あたしの事で、何か覚えてること、言ってよ。」
そう文一郎に言ってみる。
「君の事で、覚えていること、、、、。うん。覚えているよ。」
文一郎が、ぼそりと言った。
和子は、びっくりして、そして、嬉しくなって、答えを待たずに、また聞いた。
「本当?何、何を覚えてる。ねえ。」
久しぶりに見る和子の優しい目だった。
「えっ。、、、うん。何だって?いや、最近、物忘れがひどくて。」
急に、和子のテンションが下がった。
「だから、あたしの事で、覚えてることある?」
ゆっくりと、話した。
「覚えてるよ。うん、覚えてる。」
「だから、何を覚えてる?」
「うん、何て言えばいいのかな、、、、、、うん。」
もう、聞くことを諦めた。
和子は、ただ漠然とした涙が流れて来た。
もう、怒りも起きない。
ただ、悲しかった。
この人の頭の中に、あたしの記憶がない。
詰まりは、この人の頭の中には、あたしが存在しない。
文一郎と結婚して、45年ぐらいになるのだろうか。
その間の、記憶が夫にはないのである。
あたしを忘れたのは、つい最近だろう。
だから、あたしが存在しなくなったのは、つい最近の出来事なのである。
それでも、考えてみると、その理屈も、本当じゃない。
文一郎の記憶の中には、結婚した時の、記憶もないのである。
ということは、結婚した時からの、45年の年月の記憶も、消えてしまったということなんだ。
詰まりは、この45年間という過去のあたしも存在が消えてしまった。
ああ、無意味な45年間じゃないの。
つい最近、忘れてしまっただけで、45年のあたしたちの歴史が消滅してしまう。
無になっちゃう。
どれだけ、儚いのよ。
お互いに助け合って暮らしてきた時間って、一瞬で消えてしまうんだね。
そんなことを考えると、急に不安に襲われた。
気が付くと、和子は、アイフォンを取り出して、アドレスを確認し始める。
「うん、リカは、あたしのことを覚えているよね。うん、大丈夫。リカには、あたしは存在する。それから、もと同僚の水石さん、木村さん、岡田さん、この3人も、まだ、あたしを覚えてくれているはずよ。いつも行く、パン屋さんの店員さんも、あたしのことを覚えていてくれてるし、、、いや、パン屋さんは、あたしの顔は覚えてくれていても、あたしのプライベートまでは、知らないだろうし、これは、覚えているっていう範疇に入れていいのかしら。」
なんて、アドレス帳の名前を、一人ひとり確認している。
そして、少し安心したようすで、アイフォンを仕舞った。
「ああ、まだ、あたしは、この世に、存在してる。」
そう言って、窓を少しだけ開けて、外の空気を吸ってみた。
でも、また不安になる。
ちょっと、待って。この人たちは、あたしより、ずっと若いよね。たぶん、この人たちの中で、あたしが1番先に死ぬ。というか、死ねたらいいけど、この人みたいに、認知症になってしまって、あたし自身の名前すら忘れてしまったら、どうなの。
名前だけじゃない、あたしが今まで生きて来たことの記憶を忘れてしまったら、、、、。
そういえば、今だって、小学校の時の記憶が薄い。
中学だって、クラスの友達の名前も顔も、思いだせないじゃない。
あたしの中で、小学校の時のあたし、中学校の時のあたしが消えようとしている。
たぶん、あたしも、中学校の時は、誰かを好きになって、胸がキュンとなる瞬間もあっただろうに。
その記憶が無くなっている。
でも、これがさ、あたしが、あたしの名前すら言えなくなるかもしれないんだよね。
この人みたいにさ。
あたしの名前が言えないぐらいなら、あたしの結婚生活も、何もかも、すべて忘れたってことになるのよね。
それって、あたしの記憶から、あたしが消えるということでしょ。
あたしは、息をして、心臓も動かして生きているのに、この世に存在しないって、そんな変なことになっちゃうのよね。
そう考えた和子には、この先に待っているのは、絶望しかないと思わずにはいられなかった。
「あなた、そろそろ帰るわね。」
そう文一郎に告げて、和子は部屋を出た。
風よけのベージュの薄手のコートが、くるくると回る風に吹き上げられた。
和子は、コートの端を手で押さえる。
ふと、自分を見ると、ベージュの春物のセーター。
茶色の楽チンなウォーキングシューズ。
ああ、すっかり年寄りみたいな格好だねと、自分の姿が可笑しくて、少しだけ笑った。
「70才かあ。もうすっかり、おばあさんだね。」
と呟いてみたが、誰も聞いていない。
帰りに繁華街の梅田によって、久しぶりにデパートで美味しい物でも買って帰ろうと思う。
今じゃ、もう食欲だけが、あたしのストレス発散の手段になっちゃったんだよえ。
「色気より、食い気。」
あははは、それもまた、楽しいか。
繁華街に出ると、ちょっと元気が出てきて、ブラブラと地下街を歩いてみた。
すると、すれ違う人の中に、和子と同じぐらいの年齢の女性が何人もいることに気が付き始めた。
「あれ、あの人、あたしより年上よね。きっと。」
そんな人が颯爽と歩いている。
「あ、あの人も、あたしぐらいだ。」
歩く歩幅なんて、あたしの倍ぐらいあるじゃない。
何している人なんだろう。
ひょっとして、まだ現役で働いている?
そんなことに気が付き始めたら、もう、すれ違う人の中で、自分より年齢の高いくて、それでいて、颯爽としたというか、元気な人が、何人もいることに気が付いた。
ああ、あたし、何してるんだろう。
でも、あたしは、あんな人みたいには、カッコよく生きられないよ。
だって、何しても、ドジでダメな、そんなあたしなんだもん。
でもさ、ちょっとは、マネしてみたい気もするな。
そうだ、格好だけでも真似てみるか。
和子は、目に留まった靴屋に入って、さっきすれ違った女のイメージのする靴を見て回った。
「これ、カッコいいなあ。」
手に取ったのは、赤いハイヒールだった。
「久しぶりのハイヒールだから、立ち姿おかしくないかな。うーん、ヒール、もう少し低い方がいいかな。いや、それじゃ、今までのあたしと同じじゃん。ここは、思い切って、今までの自分を変えるつもりでね。」
すると、横から、「お似合いでございます。」と店員が言った。
「バカヤロー。そんなセールストークは、いらないんだよ。」
まあ、声には出さなかったけど、そういうことだ。
今までは、考えてもみなかったハイヒールを買ったことで、和子は、軽い興奮状態になっていた。
化粧品店に入って、口紅を買う。
今までに、引いたことのない色を買った。
「そうだ、パンツなんて、そんなの履いてちゃダメだよね。」
そう呟いて、薄手のワンピースを試着してみる。
「ちょっと、裾が短くないかな。」
「お似合いでございます。」
だから、そんなセールストークは、いらないちゅーの。
でも、その言葉、素直に聞いておいてあげるわ。
だって、あたしのことを褒めてくれてるんだもんね。
帰路の阪急電車の中で、荷物いっぱい膝の上に乗せて、和子は、ちょっと嬉しくなっていた。
そりゃ、あたしは、今日、すれ違った人みたいに、現役でこれからバリバリ働けるってこともないし、見た目もイケてないし、大体、才能も無いしさ、何も出来ない女だよ。
だから、あんな風には生きられないよ。
でもさ、あたしだって、これからの人生、楽しむぐらいは、してもいいよね。
あたしが、あたし自身を忘れてしまって、あたしという存在が消滅するまで、その時間だけでも、自分の時間を楽しむぐらいは、してもいいし、出来るよね。
そうだ、趣味の教室にでも通っちゃうかな。
社交ダンスなんて、どうかしら、あたしの魅力で、男性はイチコロよ。
それか、絵画教室もいいなあ。
あたし不器用だけど、何か自分のイメージを表現できるもの、ないかなあなんて、思ってたのよね。
文一郎さんには、申し訳ないけど、これからは、あたしは、あたしの時間を楽しむわ。
それに、施設に入ってるから、まわりの世話は、スタッフの人がやってくれるでしょ。
冷たい言い方だけど、あたしがするよりも、あなたにとっても、その方が楽なはずよ。
それに、第一、あなたの中には、あたしが存在しないもの。
存在しない人に、世話を焼かれてもねえ。
「誰か知らないけど、ありがとう。」なんて、あなたに言われたら、あたし泣いちゃうかもよ
それにしても、あたしが消滅するまでの10年なのか、20年なのか、その残された時間を、思いっきり楽しむぞなんて、あたしも必死だね。
必死で楽しむなんて、そんなの楽しめるのかな。
あはは、気にしないことだな。
次の日。
和子は、裾の短いワンピースを着て、今までにない色のルージュを引いた。
そして、赤いハイヒールを履いて出かけた。
文一郎のいる介護施設。
「ねえ、あなた、この格好、どう?素敵でしょ。」
文一郎は、和子を見ている。
そして、何かを言おうとした時に、和子は、文一郎の唇を押さえて言った。
「あ、いい。まさか、素敵だよ、茉莉子なんて、言ったら怒るからね。だから、感想は、もういい。」
この人の中に、あたしが存在しないんだったら、もう、この人なんて、捨ててしまって、あたしは、あたしの新しい人生をスタートさせよう。
そう、昨日は考えたりした。
だって、いくら尽くしても、あたしのこと見えてないんだもん。
だって、存在しないから。
でも、その考え方も、少し棚上げにすることにしたよ。
だって、あなたの中にあたしが存在していなくても、あたしの中には、まだあなたが存在しているのよ。
あなたとの結婚生活。
あなたが、あたしを見る時の優しい目。
そんなの全部、覚えてる。
だから、あたしが覚えている間は、まだ、あなたに付き合ってあげる。
明日からも、あたしという知らないおばさんが来るかもしれないけど、まあ、期待しないで待っててね。
そう、文一郎に言って、施設の部屋を出た。
そして、出る時に、1度振り返って、文一郎に晴れやかに言った。
「あ、そうだ。あたし新しい男作るかもよ。」
文一郎が、優しい目で、少し頷いた気がした。
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