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この世界で『 』君と。
気付けば彼女―優花は、茫然と、彼―蒼太が眠るベッドの脇に立っていた。ふと視線を移せば、真っ白な病室の真っ白なベッドの上で、全身所々に包帯を巻かれた蒼太が静かな寝息を立てて眠っている。そっとその腕に触れれば、ゆっくりと彼の瞼が開いたのだった。
自惚れでも惚気でも何でもなく、蒼太と出会ってからの日々はとても幸せだった。
同じ大学だが学部の違う、普通ならきっと接点も無くそのまま卒業していたであろう二人は、共通の友人を通じて知り合った。仲良くなったきっかけは、出身が同じだったことと、音楽と旅行という趣味が合ったこと。そしてそれ以上に、何より優しく穏やかで他人のことを思いやれる、彼の心の広さに優花の方が惹かれた。付き合い始めたのは二年生の冬。三年生の後期にそれぞれのゼミが決定するまでは、学業やアルバイト、サークル等の時間の合間をぬって、時間を合わせて様々な場所に一緒に出掛けた。
大学四年生になり、優花は文学部で社会学の統計調査で忙しくしていたし、蒼太は工学部で卒業制作と大学院の入学試験に追われていた。しかし、彼からは卒業後にゆくゆくは一緒に暮らしたいという将来の計画を伝えられていたし、二人の共通の目標に向かって走り続けていると思えば何だって頑張れた。お互いに地元で就職が決まってからは、しばらくはそれぞれで生活しながら、忙しい仕事の合間に時間を合わせてなるべく一緒の時間を過ごした。
そして蒼太が大学院を卒業して二年が経ち、やっとお互いの仕事も軌道に乗り始めたところで入籍することになった。結婚して二年目の春、子どもはまだ居なかったが、一緒に起き、朝食を摂って仕事に行き、同じ家に帰り、一緒に夕飯を食べる。休日には好きなミュージシャンの演奏会や、ちょっとした小旅行に出掛ける。そんな何気ない日々が幸せだと感じた。
幸せだったのだ。
確かに、あの瞬間までは。
一瞬で全てを奪い去った、二人が乗っていた乗用車よりも遥かに大きなあのトラックが、交差点で右折し損ねて真正面から突っ込んでくるまでは。
誰かが音を付けっぱなしにしているのであろう、隣の病室から微かに聞こえてくるニュースの音から推測するに、事故が起こった日付からは随分と時間が経ってしまっているようだ。しかし、事故の瞬間以降、1ヶ月という時間の経過の記憶は正直全くと言っていいほど綺麗に抜け落ちてしまっていた。脳裏に残った最後の映像は、フロントガラスいっぱいに迫ってくる大きなトラックのボンネットと急ブレーキの音、そして咄嗟に庇ってくれた蒼太の腕。そのお陰だろうか、優花の体には傷一つ無いようだった。ぼうっと天井を見つめる蒼太の瞳には、まだ優花の姿は映っていない。
「蒼太、気が付いた?」
彼女が話し掛け、その時初めて彼女が隣に立っていたことに気が付いたように、そちらの方へと視線を向けた。
「ここ、は」
「病院。酷い怪我をしているから、まだ動かないでね。すぐにお医者さんを呼んで貰おう」
「ありがとう。記憶が所々曖昧なんだけど、確か事故を起こしたはずで…君は、大丈夫?怪我はしてない?」
「うん、きっと君が守ってくれたからかな、傷一つ無いよ」
そうか、良かった。と、蒼太は心底嬉しそうに笑う。そして周りを見回した後で暫く優花の方を見つめて、困った顔で口を開いた。その目にはまだ、はっきりと彼女の顔を映してはいないようだ。
「あの、申し訳ないんだけど、腕…は怪我をしているのかな、動かせないや。真っ白で何も見えないから、眼を覆っている物を外してくれないかな」
「覆っている物、って」
彼の瞳を覆っているのは、怪我が酷かった方の右眼の包帯だけだ。左眼には何も付けられていない。その状態で真っ白で何も見えないということは、左眼の視力は失われている可能性が高い。その絶望的な事実に浸る間もなく、彼の意識が戻ったことに気付いた看護師がすぐに医師を呼び、一気に病室が慌ただしくなる。
医師が到着し、すぐに様々な検査へと回される。その間に蒼太の母親も病室へと駆け付け、三人で現在の状況について話を聞くことになった。医師の話によれば、事故後の経過を見る限り右半身の骨折以外に脳機能や運動機能の障害は残らないであろうということだった。しかし、左眼の視力は光の明暗が分かる程度、怪我の酷い右眼の視力も、恐らく失われている可能性が高いであろうということだった。
*
蒼太が意識を取り戻し、一週間が経とうとしていた。やはり怪我の酷かった右眼の視力は光すら通さない程に完全に失われており、左眼の視力も相変わらずのままだったが、顔に巻かれていた包帯は外れ、怪我の方は少し傷跡が残る程度まで回復していた。また、右腕と右大腿骨の固定は残っているが、少しずつリハビリがてら動くことができるようになっていた。
「なぁ優花」
蒼太は振り返り、光の映らない瞳を真っ直ぐに優花へと向ける。見えなくとも彼女がそこに居ると確信したその行動は、いつも優花に安心感をくれる。差し出された手を握り返した次に彼から発せられた言葉は、彼女にとっては、できることならずっと聞きたくなかった言葉だった。
「優花は、ずっとここに来ているよね?仕事は大丈夫?」
「大丈夫。蒼太は心配せずに、まずは自分の体を休めていていいよ」
「うん…ありがとう。じゃあもう一つだけ…すごく、変なことを聞いてもいいかな」
あぁ、ついにこの日が来てしまったのだ。蒼太に悟られないよう小さく息を吐いて、ゆっくりと優花は微笑む。蒼太が意識を取り戻し、その目覚めた彼に声を掛けようと決めてから、そして視力を失ってしまったことが判明したその瞬間から、いつの日か彼からこの言葉が出てくるであろうということは予想していた。そしてその時彼がどんな言葉を発し、どんな態度を示そうとも、しっかりと受け止めようという覚悟は出来ていた。
「うん、なあに」
「君は、本当に、優花なんだよね?」
あぁ、本当に、思った通りの言葉だった。疑念が確信に変わるが、優花は微笑みを絶やさずに問う。
「どうしてそんなことを聞くの」
彼は分かっている、悟っているのだ。
「変なことを言っているのは分かっているんだ。でも、きっと君は」
「…待って」
覚悟はできていた、ただ、その先を聞いていることができなかった。やっぱり、彼の口からは言ってほしくなかった。だから敢えて、彼女は自分で、自分の言葉でそのことを伝えることを選んだ。
『貴方は…私がもう、この世には存在していない人間なのか、って言いたいんでしょう』
「…やっぱり、そうなんだね」
聞こうとしていた筈なのに、そう答える蒼太の言葉。それはきっと、優花に尋ねる前から確信していたという証拠だ。いつから気付いていたの、と彼女が問えば、実を言えば、昨日母親が見舞いに来るまで気付いていなかったんだ、と蒼太は笑った。
今日の昼食を終えて、昼食の介助に来てくれていた母と病室で一息ついていた時のことだ。優花が一週間ずっと自分の病室に付きっ切りであることを心配して、母親に今の二人の仕事の様子を尋ねると、何とも言えない様子ではぐらかされてしまったのだという。今思えば、優花の話をしようとすると、医師も、看護師も、他の家族でさえも、少し気まずそうな声音でそれとなく話題を変えてきた。それは蒼太が眠っている間に過ぎてしまった一ヶ月という長すぎる時間や、その間に失われてしまった優花の命、彼女の葬儀のことなどをどのように知らせるか迷っていたのであり、蒼太自身も視力を失ったことで少なからず絶望を抱えていることを見越してのことだった。優花は、蒼太の病室に誰かが面会に来ている間や、蒼太が優花に意識を向けていない間は、彼女自身の意識がはっきりしていないことも多く、今回も母親が介助に来ていた時間だったために、そのやりとりを知らなかったのだ。
優花は一連の話を全て聞いてしまうと、そっと蒼太の肩に触れて溜息を吐いた。
『…もう、貴方と一緒にいることはできないのね』
「え、どうして?」
さも不思議そうに、蒼太は首を傾げた。本当に優花の言葉が理解できないといった様子だ。
『この世のものでなくなってしまった私となんて、これからずっと一緒に居られるはずがないもの』
「でも、僕なら言葉を交わすことができるし、君に触れることもできる。君が隣に居てくれたなら、目が見えなくたって何処にだって一緒に出掛けることができるだろう」
『私の姿は貴方以外の人には見えないし、声だって聞こえていないの。貴方が一人で喋っていたら、貴方がおかしくなってしまったと思われるでしょう』
「それならそれで構わないさ。視えていた時から他人には見えないおかしなものをたくさん見つけては、怪訝な顔を向けられることなんてしょっちゅうだったよ」
蒼太は昔から「視える、触れられる」人間だった。だからこそ、幽霊となってしまった優花と話をすることが出来たし、触れ合う事もできたのだ。
「そもそも、僕がこの先生きていたとして、君以外の女性を伴侶とするつもりも無いし、この世に魂だけになってしまっていても、君と一緒に居たいと思うよ」
『…馬鹿な人』
「そうかもね。でも、きっと君も未練があったから、ずっと僕の傍に居てくれたんだろ」
これからも、この世界で2人で生きていこう。結婚式の誓いの言葉のように、改めて2人で誓い合う。
この世界で、『この世界のものでなくなった』君と。
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