救われぬ男

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救われぬ男

 南海トラフの変異から四国沖に生じた無人島に来ていた。映画『プリズンアイランド』のオーディションが今夜ここで行われる。  屠羽房組の借金を流星(ながれぼし)一家に肩代わりしてもらう条件で,愛子は一家の手がけ る「流星ファミュウ」という芸能事務所に所属し女優として活動するよう迫られている。表むき一家は合法的な企業組織の体裁を保っているものの,実質は始末に負えない嗜虐的集団らしい。一家のトップに君臨し,アパレル会社や飲食店の経営を一手に担う流星 純狼(じゅんろう)は,現在の不動の地位を,腹違いや義理の兄弟姉妹の血と(むくろ)の上に築いた。  その純狼の手回しにより,愛子はできあいオーディションで主役に選ばれ,芸能界にデビューする予定になっているという…… 「仕方ないわ。兄さんが戻ってくるまでの辛抱よ。必ず戻ってきてくれるはず。口では冷たいことを言っても心根は優しい人だもの。まして私に危害を加えようとしているなんて……」愛子が瞳を潤ませる――色をかえながら揺れる湖面の奥底へと吸いこまれしまいそうだ。「珠緒(たまお)さん……」  彼女が俺の名を呼ぶ。ああ,何て至福のひと時なのだ…… 「タッマオちゃぁあん~」ワイルドアニマルが眼前で唇を突きだす。「聞こえてますかぁ~?」鰐淵が目を尖らせたまま,つくり笑いを浮かべた。 「ああ,すみません……」 「私,あなたを信じていないわけではないの……でも兄さんを信じられない自分になりたくないの」上目遣いで見てから,砂浜に設置されたステージへと身体だけ正面にむけながら,肩越しに視線の余韻を残しつつ,満月の光露に濡れる尊面もついに裏返し,ロングスカートの揺れるたびに羞恥するみたいな柔らかなラインの足を徐にもちあげる――  ああ,歩いている……俺の観音が,ヴィーナスが,マリアが動いている……この現象は奇跡なのだ…… 「くわぁはあぁ~」熱帯の沼に棲息するクロコダイルが大欠伸した。「さあ,何処いらで暴れてやっかなぁ」 「ええ?……」 「ええって?――ええ? おめえもそのつもりで来たんだろう? こんなちんけなオーディション,ぶち壊してやろうぜ!」 「ぶち壊すって?――ええっ!」 「ええって――ええ? てかっ,珠緒ちゃん?――おめえ,何のためについてきたの?」 「それは保輔から彼女を守るためですよ」 「威祉輝(いちき)(わか)か――若のことより今は純狼だぜ。あいつは好みの女を自分のプロダクションにいれては食い物にしやがる」 「えええぇぇ!――」  口を塞がれた。「うるせぇ,うるせぇ,静かに,しぃー」 「グヒ物ッテェ? ドウヒュウ意味デヒュカハァ?」 「そんなこたぁガキでも分かんだろぅ――遊んで飽きたら男相手に荒稼ぎさせんのさ」 「グゥエエエエェェエエエエ!! 許シャン! 俺ハァ絶対許サンジョホウ!」 「分かった,分かったから静かにして」 「鰐淵さんじゃありませんか――」  クロコダイルが獲物を仕留めたまま後ろをむいた。  頰の高さで両側部の頭髪を外へと反らせ,上部へあがるにつれて黒から銀へとグラデーションをなしていく髪筋は方々に跳ねながら始終揺れているくせに,頰から下の削がれた髪は両肩に縫いついたように真っ直ぐ垂れて動きがなかった。  古き異国のロック歌手かよ――セットするのに何分かかるんだ? 「今日も3時間?」鰐淵が自分のオールバックの髪を撫でた。  ええぇ,噓!? 暇…… 「4時間ですよ」  ……アホだな。  1人・2人・3人の3列をなして並ぶ黒服衆を背景に負い,男は左右に頭を振った。上はギャシャギャシャ,下はピタリ。「今夜は大切な夜だ――流星純狼の名に恥じぬようスタイリストにとりわけ入念に仕上げさせました」 「オミャアハガ純狼キャハァ!」  口を塞ぐ右手に左手が加わった。両手でぐいぐい口もとを締めつける。 「どちらさま?」純狼が乾いた視線を投げて寄越す。 「気にしないで――」クロコダイルは力を緩めない。 「そう……ですか。ところで鰐淵さん,先日は月分をおもちいただいたそうで。御心配には及ばないと申しあげたじゃありませんか。おたくとうちとに貸し借りの関係はない――何せ愛子さんがおいでくださるんですからね」 「困るね――決定事項みたく物言いされると」 「と,申しますと?」 「お嬢があんたんとこに入るって決まったわけじゃねえよ」 「ハハ……」一旦おろした視線で世界を搔きまぜながら最終的に獲物を突く。「うちのことがよほど嫌いなんだ。それで今夜のパーティーを駄目にするつもり? 何をしますか? 奪います? 殺します? 大切なオーディションですよ――おたくの女親分がうちの駒になるためのね」 「何だと,てめえ!――」  拘束を解かれ砂浜にずりおちた。鰐淵が純狼に襲いかかるのを見た。しかし忽ち黒服衆にねじふせられる。  無意識のうちに体が動き,気づいたときには鰐淵を奪還していた。黒服衆が重なりあって気絶している…… 「まさか,うちの選り抜きたちが……」愕然としている。 「愛子さんは諦めろ! でなきゃ俺を狂わせるぞ!」身構えるなり,純狼は飛びのいた。「うっせぇ! 今すぐ人質を()るぞ!」声も喉もうねらせて怒鳴る。「俺の一声で屠羽房組の人間がまた1人消える」少しだけ高い位置にある不揃いな両眼が押しひらいた。嫌悪の(しずく)が一瞬にして全身を汚染する。 「組員が4人も行方不明だ――」鰐淵がしがみついてきた。「やめてくれ,後生だから」  俺は両腕をおろした。  純狼が繻子のシルバースーツを整えた。「喜びなよ。殆ど死にかけてるけど微かに息してらぁ――ほかの3人は拷問したとき死んだ」  鰐淵が浜辺に頭を打ちつけた。夜の大気に白砂が飛び散って消えていく。 「霊魂とか転生とか信じてねぇだろ」俺の問いかけに純狼が嘲笑った。「非科学,信じてんの? ジワルわ」 「非科学?――科学で説明できねぇだけだよな。それって人間が無能だから解明できねぇだけじゃん。解明できれば科学になる」 「何言いたいの。おまえらと違って忙しいんですけど。端的に話してくんない」 「その頭でよく言うよ」 「何だって?」 「つまり言いたいのはさ――おまえはろくな死に方しねぇってこと。殺した人間が転生しておまえを許しちゃおかねぇよ」  また嘲笑が返ってくるはずだった。  目を疑った。意識を意図的に混濁させようとする。錯覚めいたものだと思いこもうとするが,確固たる認知にほかならないのだと強烈に自覚するしかなかった。彼をとりまく見えない緊張と重圧の障壁は瞬時に瓦解し,繊細な子供じみた表情が露呈されていく――「ありがとうって言おうとしただけなのに何でそんなに(おび)えるんだ!」喉が裂けたせいなのか口中いっぱいに血の味がしていた。「逃げるなよ――もう逃げないでくれよ!」胸の搔き毟られる思いで両手に力をこめる。俺は馬乗りになって女の首を絞めていた――違う! 強烈な吐き気に襲われながら俺はこいつじゃないと自らに言い聞かせた。 「人生ではじめて救われたわ――」純狼は空鼻を啜った。「あんたの言うとおりだといいな。仕返しされるときが待ち遠しいよ……」  鰐淵は遠ざかる純狼にむかって唾を吐いた。「救われただって? てめえなんぞ絶対(ぜってぇ)救われるかよ」  俺は頷いた。彼は救われる資格のない極悪人だ。そして全能の神も救いようのない幼稚な自尊と臆病な孤独をもてあます苦悩の男なのだと,憑依した刹那に確信された。
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