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魅せられて屠羽房組
酒に溺れて眠った翌日,昼過ぎから仕事に出たが,例の悪癖が生じた。雀になって烏に食われそうになったばかりか,操作を放棄し制御不能にしたブルドーザーで同僚まで殺しかけた。そう,俺には厄介な性質がある。気づけば何かに憑依しているのだ。
友だとでも思っていたのか。現代に転生した平安時代の盗賊貴族 藤原 保輔の 悪事を知り,今更ながら裏切られたみたいな気持ちになった。信じる価値などない奴だった――そんな風に割り切れない自分がもどかしい。
仕事も失い,今日も深酒している自分がみじめだ。何もかも保輔が悪い。彼に憎悪さえ覚える。
好き放題俺に殴られ,意識のなくなる寸前に保輔は言った。「かようにそなたを害する女なら再び我が始末してくれよう」
俄かに酔いが醒めた。全身が悪寒に襲われる――どうしよう。いくら熟考しても妙案は浮かばない。
もうじっとしていられない。アパートを飛びだし,行き交う人々の戸惑いと忌避とを受けながら道筋を尋ねて屠羽房組に辿りついた。
こぢんまりとしたコンクリート製の倉庫に,西欧上流家庭のエントランスドアをあてがったと表現するのが適当な家だった。呼び鈴の在り処を探すうちにドアがひらく。
熱帯,砂漠,サバンナ,野生動物――そんな言葉が脳内をぐるぐる巡る。出てきたのは,あくの強い顔立ちの男だった。品定めするみたいな目つきでほぼ同じ高さに位置する相手の両眼を貫くと,入れと命令し,薄暗い廊下を先に歩かせてついてくる。背後からばっちばっちと殺気めいたものが押しよせた。
耐えきれなくなって壁に背をつき,男を睨みつけた。
「何だよ,ガキ――」わざとつくったみたいな癖のある声で言う。
「確かにオッサンよかはガキかもしんねぇ。けど俺もいい年齢してんだよ。それに一応客だし――らしい扱いしてくんない?」
「客だって? 昼間っから酒の臭いプンプンさせやがって。どうせ引きこもりか,リストラされたか――そういう類だろうが」
「そのとおりだよ」
「けっ……うちの組に入りてぇってか? 世間に仕返ししようとヤクザになるってか? こっちの世界もそれほど甘くはねぇよ――」
「使いものになんねぇ奴は何処の世界に行っても使えねぇ」
「……まあ,そういうこった」
「ヤクザになろうとなんて思っちゃいねぇよ。上下関係,団体行動――そんなのクソックラエだ。だから組に入るつもりはねぇ。あんたにも迷惑かけねぇ」
「じゃあ何でここに来た?」
「あたしに会いにきたのよ」愛子がワインレッドのバスローブ姿で立っていた。しどけないあわせ目から胸の谷間が覗いている。目眩く桃源郷によろめいて廊下に両膝をついた。
「大丈夫?……」そう言って顔を覗きこむ。アップにして露わになった項に濡れたおくれ毛がはりついていた。「……少し休むといいわ」俺の腕に熱を帯びた胸が密着する。視線が絡みあう。どうにかなってしまいそうだ――
「さあ,いらして……」甘い囁きにつつまれながら導かれるままに立ちあがり,半びらきのドアからくすんだ灯燭の漏れる部屋へと誘われていく……
「お嬢――」熱帯棲息動物が唸った。
「鰐淵……あなたは口出ししないでちょうだい」
見つめあう愛子の瞳に誰かの影が揺らめいた。俺ではない。背後の男でもない。「それはアヤカシじゃ。そなたの思い人の生まれかわりなどではない」保輔がニヤリと笑った――
頭を抱えて這いつくばった。「鰐淵さん――何処にも行かないでください。俺たち2人きりにしないで――」
「え?」愛子と鰐淵が同時に言った。
「2人きりにされると俺は理性をなくしちまう。モンスターになっちまう――」
鰐淵は噴きだしたが,険しげな表情を繕って口もとを隠した。愛子がちっと舌打ちをする。「それでいいじゃないの」
「よくはない――君は俺の恋人にそっくりだけど彼女じゃない」
「堅苦しく考えないで。あたしたちは求めあっている。どうしたいのか素直になって……」吐息が耳を弄ぶ。「楽しめばいいのよ……」
「それは違うだろ……」脂汗の滲む顔面をあげた。「本当の愛ってそういうのとは違う」
「は?……」
「俺の愛は彼女を裏切らない。俺自身もそれから君も……俺は君を裏切るなんてできないから」
一瞬だけ崩れかけた表情がすぐにかたくなる。「ばっかみたい――わけ分かんないし。すっかり冷めたわ」バスローブを引きあげながら部屋に戻っていく。
「保輔が何か企んでいるかもしれない――」咄嗟にまくしたてた。「君にとってよくないことだ。ボディーガードをするよ。君を護衛させてくれ」
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