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※ 「すみません、子供、遠くに行かないかだけ見ていてもらえますか?」  マチがいつもの簡易的な自己紹介を終えてから、母親はヒムラに向かって申し訳なさそうに言った。その理由を既に知っているヒムラは「慣れてはないですけど大丈夫です」と快諾したつもりで側の花壇へと向かう息子の後についた。 「これで、話せます」  そう呟く母親は無意識にか、とても重いため息を吐いていた。  依頼人は木庭寺明梨(こばでらあかり)、二十五歳。彼女は二週間程前から息子の(いく)に起きた異変を危惧し、灰色に辿り着いた。 「変だなと思い始めたのは二週間位前からです。そこから、どんどん、……その、成長とかそういうものでもなく、おかしくて……」  マチが促すと明梨(あかり)は遊具に腰を下ろし、生成り色のトートバッグを腹に抱えた。そうしてゆっくりと、けれど酷く疲れた声で語り始めた。  息子が四歳になり、それなりに遊びの範囲も増えた。他の子供達ともうまく遊べるようにもなって、これまでなんとなく避けていた友人の家族と初めての川遊びに出た。明梨(あかり)にとってもこういうものは五年振り、それを息子と一緒に楽しめることにも幸せを感じた。  友達夫婦とその子供二人、私と夫、そして息子、大人の目も多く、皆存分に羽を伸ばせて楽しんだ。  初めての川、水たまりともお風呂とも全く違うものに、息子は大いに喜んだ。目に映るもの手にとるもの、全てが新鮮だったに違いない。いつもは眠くなってしまう時間を過ぎても子供達は遊び続けた。こんな日ばかりは、大人も子供も特別な一日だった。  夕方前には解散し、また都合が合えば一緒にと約束をしてそれぞれ帰路についた。子供達も互いの名前を覚え、喧嘩もなく仲良しのままで終われた。そんな姿に、息子はまだまだ小さくても成長しているのだと、少しだけ涙が出そうになった。自分がそう教えられている、間違ったことを教えてはいないという、自分自身の肯定にも近かった。  車の中ではもうぐっすりと眠っていた息子を起こさないように布団に運んで、そっと寝かせた時、息子のズボンのポケットから何かが落ちた。楕円の形に丸い、不思議な線の入った石だった。  きっと、珍しいものに惹かれて持ち帰ったのだろう。なにも気に留めることもなく、息子の宝物入れの側に置いておいた。  夜に一度起きた息子に、「これはなに?」と聞くと嬉しそうに「きれいねー」と言う。やはり、珍しい線の入った石に惹かれただけのようだった。  数日後の朝、大人と違って朝に弱いこともなく起きてすぐに遊び始める息子が、今日に限っては大人しく座り、ただぼんやりとしていた。先日の川の疲れが急に出たのか、珍しく今日はまだ眠いだけなのかもしれない。特段気にせず過ごしたが、お昼前になってもその様子は変わりなかった。おもちゃを手には取るもののやはりぼんやりと、楽し気に声を上げることもなかった。  流石におかしい、けれど額を触っても熱をはかっても異常はなかった。だが一度持った不安が解消されることはなく、明梨(あかり)はすぐに息子を病院へと連れていった。結果は何事もない。風邪のひとつもなく、至って健康だった。  川遊びで受けた刺激が強く、反動なのかもしれない。なにより病気も怪我もなくて良かった。大人にも元気な時間と落ち込む時間はある、きっと、この小さな体にもそうした変化もあるのだろう。  そこから更に数日後、やはりまだ少し大人しいとは思っていたが、この日は更に違った。四歳の息子が「赤ちゃん返り」のように振る舞うようになったのだ。いつもははっきりと言葉に出来るものも擬音で表す、器用に扱えるようになったスプーンやフォークも急に手放し、自分の「子供」ではあるものの少しおかしく思えた来た。  更に、息子は時折、明梨(あかり)の知らない言葉でものを表すようになった。トイレを「チョウズ」と呼び、麦茶を「ムギユ」と呼びスプーンを「シャジ」と呼ぶ。何度も聞いた明梨(あかり)が調べると、どれも息子が知るわけもない言葉だった。  その後も明梨(あかり)の知らない言葉でものを表す行為は止まらず、息子の口からは日々新たな言葉が発せられていった。  ここまで来ると成長の一言で片づけるには難しくなった。明梨(あかり)は困惑し、夫に話してみるが「どこかで聞いて覚えたんだろう」「子供はよくわからないものをはっきり覚えるから」と、まるで明梨(あかり)の思うものを真面目に取り合ってもくれない。そうではない、幾ら明梨(あかり)がはっきりとそう思っても、話す相手の誰もが明梨(あかり)の言う所を理解してはくれなかった。  そしてその日、明梨(あかり)は家事の最中に先日息子が拾った石が息子の宝箱に入っているのを見つけた。家にあることも忘れ始め初見ではなにかと首を傾げたが、けれどすぐに思い出した。楕円に丸く、線の入った珍しい石、今一度その珍しさをまじまじと見て、裏返した瞬間、明梨(あかり)は石を手放した。  石に入っていた線の延長で、裏面に奇妙な、顔のようなものが浮かんで見えた。それは陰影でそう見える、というよりもずっと、はっきりと。真っ暗な目と、真っ暗な口、鼻や眉、耳までも、はっきりと。  気味が悪くなった明梨(あかり)は翌日、息子とショッピングセンターへ行く道を大幅に遠回りして、石をもとの場所に戻した。川原に来た息子は喜んでいる。その横で、石を投げ捨てた。  それが原因とは思ってはいない。けれど明らかに川遊びから、その石を持ち帰ってから、息子はほんの誤差のような異変を起こし続けている。そしてそれが重なり、やがて疑える程、息子とかけ離れて行くようだった。  今や時折、成長とは違った息子の違う姿を見る。言葉の使い方や、気に入りのおもちゃや、好き嫌いや、我が子だからこそわかる小さな仕草の差異。徐々に、徐々に、その異変に気が付いてしまうのだ。
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