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「病気でもなく痛がることもなくて、誰に話しても初めての子育てだし、子供なんて毎日常に成長して次の日には昨日とは違うものって言うんです。でも、だからこそおかしい気がして。……その、その、本当におかしなことを言うっていうの、自分でもわかってるんです。でも、……でもなんだか、……自分の子供じゃ、昨日よりっていうんじゃなくて、違うんじゃないかって、思うように……」
「別人に思えると」
「……おかしいですよね、わかってます、自分の子なのに」
言いながら、明梨は今にも泣き出しそうなのを堪えて俯き、唇を噛んだ。きっと、灰色に辿り着くまでの間にも散々調べ、子育ての先輩である母親や友人にもそれとなく聞き込んでもいたのだろう。けれどどれも納得がいかない。
彼等、彼女達の返答は「子供とはそういうもの」「初めての子育てだから」の括りを抜けない。明梨自身、それはわかってはいるのだ。けれど、我が子だからこその異変に気が付いてしまう。誰よりも側で見守り、その成長を見ている。だからこその違和感に。
「今の状態は」
「未だに赤ちゃん返りのようなものが続いていて擬音で話すことが多いですが、今はそれよりも私の知らない言葉で話すことが気になって……一度なにかおかしいと感じるときっと、過敏になってしまっているんだとは思います。でも、なんでそんなこと知ってるのって……私も夫も、お互いの家族もその土地には住んでいないのに特定の地域の方言を喋ったりもします。勿論、そういうのはテレビで耳に残るのかもしれません。でも、子供が観るようなものに、そんなことが多く出て来るとも思いません。だって、息子が観ているものは私も一緒に観ているはずですから。なのに、どうして息子だけが耳に残って、私にはなにもわからないのかも、わかりません……」
「今現在ご主人はなんと」
「今はワンオペみたいなもので、あの子が小学校の高学年になるまでは仕事をしない予定なんです。私自身が親が共働きで寂しい思いをしたので。だから、夫は普段、寝ているあの子を見ることが多くて。朝の出勤までには見てはいるんですけど、眠いんだろう程度にしか思ってなくて」
「一番おかしいと思う所は」
途端、明梨は両手を首に、膝に蹲ってしまった。
「息子は、私を呼ぶ時は〝ママ〟って呼ぶんです。でも、……色んなことが気になりだした頃、その呼び方も変わって。あの子、〝まあま〟って呼ぶようになったんです。ママ、じゃなくて、まあまって。平仮名を全部そのままくっつけたみたいな、なんて言うか……」
「とってつけたかのように?」
「……はい……」
再び顔をあげた明梨は我が子を眺め、幾つか涙を落した。視線の先にはヒムラと共に花壇の花を眺める息子の姿があるが、本来はそれにすら興味を持つ子ではなかったのかもしれない。
微笑ましい我が子の姿を見ているはずの明梨の表情は悲痛で、必死に自分の中の違和感と戦っているように見えた。あれは我が子、けれど、なにかが違う。
「……やっぱり、ただのストレスでしょうか。自分のストレスを棚にあげて、自分の子供がおかしいって、自分でも気が付かない内に育児ノイローゼになってるだけなんでしょうか……」
「少し見ても?」
打ちひしがれる明梨をよそに、マチは彼女の視線の先で花壇でヒムラと触れ合う息子を指した。明梨は頷き、立ち上がって共に二人へと歩んだ。
「どう?」
近寄るマチに、ヒムラは〝何〟とは言わずに問いかけた。マチはしゃがみ込み、息子の郁と目線を合わせた。しゃがみ込んで小さくなったマチと四歳の郁、本当に大差はないサイズ感となった。
「見て」
少し砕けた言い方をして、マチは小さな鏡のようなものを郁に向けた。右手の中指にリングをかけて、そこから垂れ下がる紐の先に五百円玉程の大きさで歪に丸い、鏡のようなものがぶら下がっている。けれどそれはなにも映さない。ただ打ち付けられただけのように凹凸が残っている。
言われた通り、郁はマチの手のひらにぶら下がるそれを見つめた。太陽の光が反射し、郁の顔に白い模様を作った。
「……」
明梨とヒムラが固唾を飲む間、マチだけがその眉根を顰めた。手のひらの鏡のようなものを握りしめて郁の視線を遮り、「ありがとう」と言って立ち上がった。その流れのまま、視線は郁に向け自然にヒムラを残したまま明梨だけを後退させた。
暫し三人揃って見守るような距離で眺めると、小さな背を向け、郁はまた花壇に興味を戻した。その背にヒムラも続いた。
「貴方の言っていることに間違いはないようだ。これは俺達の領分、依頼はお受けします」
「本当ですか?」
「息子さんが拾った石からちょっとした影響が出ているようです。多方から光を当てられて影がぶれるようなもので、きちんと対応してしまえばなんてこともない」
「石から?」
「ただそこに転がっている石だって、人間より遥かに昔から存在するものばかりです。そういったものには場合によってそれなりの力がある。息子さんはまだ柔軟な子供で、それを受けてしまったんでしょう。あまりにも小さく些細な変化ですが、だからこそ母親である貴方にしか気が付けなかった。ほんの小さな誤差で、気付かれることも少ない事例です」
「私だけ……」
「貴方の持った違和感は正しい。後はこちらに任せて下さい」
明梨の表情は不安に染まっている。けれどマチの言葉に青ざめる様子もなく、それよりも「やっと」と安心すら滲ませていた。
感じ始めた不安が正しいか間違いか、悩み始めてからというもの誰しもが「気にするな」と言った。その度、明梨の不安は増長してしまった。持ち始めた違和感を解消しないその言葉は自分よりも親として多くの経験を経た相手によるものだった。だから、どちらでなくともそれが正しいとしても、明梨は自分の息子の母親として、納得出来ることはなかった。
不安だった、ずっと、ずっと。
違和感を感じてはいるものの、それを解消してやれない。母親として、と思うばかりで答えを見つけてもやれなかった。手遅れなことになっていたら、なってしまったらどうしよう。けれどこんなわけのわからないものをどうっやって、探しきれない、なにを、どうしたら。
堪えきれず涙がこぼれ、明梨はバッグを抱えて、顔を隠した。生成り色が所々濃い色に変わっていった。
「お子さんと貴方のものをお借りしたい。お子さんのものはなんでも構いませんが、貴方のものは金属がいい」
「……息子のはなんでもいいんですか?」
「彼の身の回りにあるものならなんでも」
「えっと、じゃあ……最近、もう全然興味ないみたいなんですけど、お気に入りだった人形があって……」
生成り色のバッグから取り出したのは小さな象の人形だった。手のひらサイズのそれは頭部に紐が付いていて体には赤と白のボーダーのTシャツが着せられていた。
「お借りします」
「私のは……金属、なんか持ってたかな……金属……あ」
バッグの中をあさり続けていた明梨の手が急に止まって、白い長財布を開き、その中からゴールドのリングが二つ重なったピアスを取り出した。
「……これ、でいいですか? 凄く好きなピアスでつけてたんですけど、郁に引っ張られて、ちぎれちゃったやつで……金属かな、プラスチックではないと思うんですけど……」
「いいですか」
マチが差し出した手に明梨は金具がちぎれてしまったピアスを一対置いて、マチは受け取ったそれを指で弾いて、何故か、「鳴るかどうか」を試していたようだった。
「大丈夫です、これで構いません」
「あ、じゃあ、それでお願いします」
「石を戻した場所はどこでした?」
「K公園のバーベキュー広場です。大きな入口の方のアーチを潜って、すぐ、左側に投げたんですけど、どこら辺にあるかは……」
「場所がわかれば十分です。明日に作業を初めて、明後日には戻ります。その時に状況の確認をしにもう一度お会いしたいのですが」
「はい、大丈夫です」
「それから、ここからは重要です」
「はい?」
そっと、マチはヒムラと子供がいる花壇へと背を向け、明梨の視線を自身の体で遮った。
「なにがどう、というのは全て終わってからお話します。なので自然に接して、自然に過ごして下さい。俺のことは、高校の同級生とでもなんでも」
「……自然に?」
「はい、俺と会う前となにも変わらず、いつも通りに」
「それが重要なんですか?」
「お子さんにストレスをかけない為に、とても大切なことです」
「郁に……はい、わかりました。夫にもこれは話していないので、話すこともないと思います。大丈夫です」
「お願いします。では、明後日、もう一度こちらから連絡をします」
本人としては力強く、けれどその印象は頼りない返答で明梨は頷いた。「それだけで良いのなら」そんな、大船に乗った気分でもあったかもしれない。
再度花壇へと振り向いたマチはヒムラに向かって「でっけえガキンチョ帰んぞ」と叫んで、恥じたヒムラは花壇の秋桜にも負けぬ程顔を赤くしていた。
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