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翌朝、いつものようにヒムラが目覚めた時には既にマチが準備前まで出来上がった状態でいた。朝は胃がおかしいからと朝食をとらないことが多く、本日も変化なくインスタントで甘めのカフェオレで朝を始めていた。
K公園まではこの家からは随分と遠い。必然とバスか列車かどちらかの選択になったが本日は珍しくバスとなった。茹だる夏も終わったこともありの選択ではあろうが、本意としては列車の揺れの方が本日のマチには堪えるという判断なのだろう。あれだけはどうしても、体を支えきれない所為もあってマチは余計に揺らされ続けてしまう。
いつもは手ぶらのマチも今日は珍しく荷物を肩に下げていた。着ている服と同じ色、出ている部分以外全てが黒で覆われたこの生き物が「鬼のように暑さが苦手」というのだから、ヒムラは内心どうかと思うが、四年も経って流石にもう慣れてしまった。
準備が済んで完全無欠の日昏マチが完成したのが九時半、バスに揺られK公園に到着したのが十時三十二分、家を出て一時間二分で完全無欠の日昏マチは車酔いで降りた途端に嘔吐いていた。
依頼人の言うようにK公園入口には大きなアーチがあった。それを潜り抜けると正面には大きな川が真横に流れ、川原も森も、一面を埋め尽くすように並んでいた。そんな場所も今日が平日であることもあって利用者もなく、犬の散歩をする老人が二人、離れた場所を歩んでいるのみだった。
「ねえ、まさか……この中からその石を探すの……?」
「無理だろ。この量見て闇雲に探すと思うか?」
「じゃあ、どうすんの? 呼ぶの?」
「大体、そんな感じだな」
「え、本気?」
真横に流れる大きな川に沿ってそれよりも広い幅で川原が続いている。森があることから土の部分はあっても大半が砂利で、その中からなにか、特定の色の石を選ぶことすら難しい状況だった。途方もない、こんな中から、依頼人が一度拾った石と同じものを探せるわけもないが、それを「呼ぶ」というのも、正直、吐きそうな状態で自棄になっているようにしか思えない。
「特定の石に反応させる。呼びかけるのは俺じゃなくてこいつだ」
肩に下げた黒いバッグの中から取り出したのは、先日依頼人から借りたあのぞうのぬいぐるみだった。赤いボーダーの服がヒムラのトラウマのような昨日の光景を思い出させるが、今日は見渡す限りが目に心地よい自然ですぐに落ち着いた。
ただ、見渡す限りに大小の砂利が広がってはいるのだが。
「昨日はボーダー、今日は砂利……ドット……」
「砂利をドットに変換すんのやべえな」
小さく笑ったマチはいつの間にやらしゃがみ込んでいて、ぞうのぬいぐるみの背中に、なにやら茶色い粉を振りかけていた。一見しては乾ききった土のようにも見えるが、所々に繊維のようなものが見えて、それがマチの調合したものであると理解した。
茶色の粉がぬいぐるみの背から落ちぬよう、ゆっくりと立ち上がった後マチは一度静止して、下から掬い上げるように吹いた。
ふわりと浮かび、吹き飛ばされていった粉は緩やかな風に乗って遠くまで伸びて行く。次第にそれが目で確認出来なくなっていくのと共に地面に落ちる頃には何故か、光に変わった。きらきらと、太陽の陽を浴びてもいるからなのだろうがそれ自体が発光したかのように輝き、落ちていく。
マチはその行為を一度ならず何度も続けた。ぬいぐるみの背に粉を乗せ、吹いて歩き、また繰り返す。二百メートル程をそうして続けた頃、ついて歩いたヒムラも流石にこれがなんなのかと問いたくなった。
「後ろ見てみろ」
ヒムラが疑問を抱くタイミングを見計らったかのように、その手を止め、ぬいぐるみをバッグに戻すマチが言う。言われた通りにヒムラが振り返ると、そこには通った時と違った世界が残っていた。
川原が、完全に光っている。いや、全てではなく、砂利の中でも特定の石だけが光りを纏っているのだ。隣り合う川が陽の光で輝くよりも強い。全ての石ではないにしろその光があまりに強く、まるで水の川の横に天の川が寄り添ってでもいるようだった。
「なに、これ……どういうこと」
「石ではないものの、光」
「これ、全部が?」
マチが言うのだ。それはきっとヒムラが思っているような純粋な石というわけではなく、マチの生業の範疇、呪いや目には見えぬ異質な生き物の類。つまり、これらはそれに等しい。これだけの数のものが、「ただの石」ではないというのだ。
「待って、確かに光ってるものを見ればいいんだろうけど、でも、それでもこの数を一個ずつ調べるの?」
「いや、ここからは母親が呼ぶ」
「は?」
いつの間にか、マチの手のひらにはピアスが乗せられていた。ゴールドのリングが二つ重なったそれは依頼人から借りたもの。片方が引きちぎれて壊れてはいるが、壊れていても持ち歩いていただけ、依頼人にとっては大切なものだったようだ。
今度はそのピアスを両手で包み込み、僅かな隙間から何かを囁き込んでいる。両手は縦に合わされ、手首が顔に来るようにして。その隙間からヒムラには聞こえても理解出来ない言葉で、なにかを囁いている。
数十秒囁いた後、マチはポケットから昨日依頼人の息子に見せた歪な鏡のようなものを取り出した。昨日のように右手の中指をリングを通し、金具の部分には依頼人のピアスをひっかけた。
金属同士が重なって無機質な音が鳴った。――のと、同時。
「……なに、なんの音……?」
幽かに、なにかが遠くで高い音を鳴らしている。それは無機質にも聞こえるが、反して幻想的な程現実味のない音でもあった。高く、か細い。甲高くはないはずが、それよりもずっと高い所で鳴っている感覚もある。とても、不思議な音をしていた。
右手のそれを互いにぶつけ合わせながら、マチは進む。行きに光に変えた砂利道を、無機質な音を鳴らして歩く。
マチに続いて光の終着点から歩み始めたヒムラの目にも耳にも、とても奇妙で、けれど信じられない程の美しさが入り込んでいた。――だが、それも音の正体を知るまでのほんの少しの間だけ。
ヒムラは、マチの手から発せられている無機質な音に呼応して鳴るようなそれが音の高さに反してとても低い場所から聞こえていたことに気が付いた。それは足元から、その、光り輝く石達からだった。
視界で光り輝く石の全てが、音を鳴らしている。マチの後について歩くヒムラが丁度その輝きの中腹まで来た頃には周囲を取り囲む光と音で、どちらもが五感を飽和していくようだった。
「凄い……呼ぶって、でも、これが石の返事だとして、依頼人の捨てた石が個別にわかるの?」
「わかる」
「音が違うとか?」
「しゃがんで、近くで石を見てみろ」
マチの言う通りにヒムラが近場の石に向かってしゃがむと、距離が近づくにつれ光が和らぎ、音が大きく近づいた。まるで空気が歪むような感覚にふらつき、五感が揺らぐようだった。
奇妙になる五感を抜けてヒムラがひとつの石を覗き込み、更にその表面がはっきりと見えるまで顔を近づけた時、それが『音』ではないことに気が付き、それまでの幻想的な印象の全てが崩れた。
ヒムラが聞いていたその音は、人の声だった。それを発しているのはまさしく目の前にある石で、そこにははっきりと人の顔が浮かんでいたのだ。苦悶や悲痛に歪むでもなく、目も口も、まるで空洞のような人の顔が。
石に浮かんだ人の顔が蠢き、ぎこちなく歪む口と思しき空洞から声を発している。口の歪みに引き攣られるように目の部分までもが蠢き、石に浮かんだ三つの空洞がそれぞれに小刻みに引き攣り続ける。
それだけでも奇妙なものが一体なにを言っているというのか。発している言葉はただ声を上げているだけのようにも聞こえるが、その中でも時折違った音が聞こえるのがわかる。目の前の石に片耳を傾けて飽和した声の中から確かな言葉を拾った時、ヒムラは勢いよく立ち上がり、マチの側へと寄り添った。
「マチ……! 今!」
石は言ったのだ、はっきりと『ヨコセ』と。
「無機物にしがみついた生命の成れの果てだ」
一度聞こえてしまえばヒムラの耳は自然と言葉を拾ってしまう。あちらこちらから聞こえるのだ。『ヨコセ』『オレノ』と、マチとは違った抑揚のない声音で、まるで真似事のような言葉の紡ぎ合わせが。
一面がまるで光の川のように輝き幻想的な景色の中、そこで聞こえたのは確かに人の声、そして強欲な言葉の数々だった。
「……これ、全部……」
「その死に関わった石に入り込んで、体をなくして尚しがみついてる。死んだ瞬間をわからずにいたのか、認められないような死に方だったのか。でも残念なだらこいつらの体があるわけもねえし、与えてやるわけにもいかない」
「うそ……」
マチの言葉と依頼の内容が合致した時、ヒムラの全身に粟立つような感覚が巡った。
息子の異変を感じ取った母親からの依頼、それも、「自分の息子ではないように思えてしまう」と言う。
「だから石は持って帰っちゃなんねえんだよ」
無機物にしがみついてまで自分の体を得ようとするどこかの誰か、生命の残滓が、依頼人の子供を乗っ取ろうとしている。
成り代わろうとする過程の異変に気が付けた母親がいたお陰で助かるとして、なんと恐ろしいことか。異変と成長の区別がついたのは、きっとたまたまか、母親の愛か、今回ばかりは後者だったのではなからろうか。依頼人が頼った誰もが子供ならではのものだと、成長だと片付けてしまった。彼女だけが、母親だけがずっと違和感を持ち続けた結果なのだ。
「……あの子が拾った石に、あの子自身が入ってるわけだね」
「それを、今母親が呼びかけてる」
マチの右手にあるなにも映さぬ歪な鏡と、依頼人のピアスがぶつかり合う。固い音が鳴る度、石はそれに呼応して鳴いた。いや、叫んだ。『ココダ』『オレノ』と。
「触らずに声だけを聴いて選別する。言葉に騙されずに、あの子を探すぞ」
物量的には半減はしただろう。しかし、〝彼等〟は嘘をつきながらヒムラとマチを自分の元に呼び寄せてを繰り返した。
対するのはどれも区別のつかない石ばかり。二人がただ泣き叫ぶばかりのその声を耳にした頃には既に、空に橙が射し始めた頃だった。
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