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 男は憂鬱だった。  せっかく縁さまから直々の調査を仰せつかったのに、宮司から人間界の用を頼まれていて、なかなか思うように動けないからだ。今も、ついさっきまで宮司にこの身を拘束され、そのせいで貴重な午前中を無駄にしてしまった。  師走の、特にこの時期は毎年忙しない。師走大祓式だかなんだか知らないが、この手の行事は妖には関係のないことだ。しかし縁さまの立場を考えると、男も不本意ながら準備の指示に従うほかなかった。  男は境内に出るとゆっくり辺りを見回した。いつもだったらここで騒がしいやりとりが目に入るはずだが、今日はやけに静かだ。小さな枝や石ころ一つ落ちていない境内に、手水舎や石造までもが丁寧に磨かれ、どことなく輝いて見える。  ――あの女、だ。あの女が来てからというもの、あおとみどりの二匹はもとより、野良魂よろしく自由奔放に生きてきたあのクロウまでもが、嫌々ながらも大人しく言うことを聞いている。それはとても良いことのように思えるが、一方で言いようのない不安が男の胸に渦巻いていた。  あの女は匂いがしない。人間の匂い……いや、それどころか妖の匂いすらしない。完璧なる無臭なのだ。そんなことが未だかつてあっただろうか。  突風が吹く。男ははらりと落ちた真白の髪をかきあげ、一つに括り直した。そして風に乗りやってきたにくん……と鼻をひくつかせると、「ここまで匂いが強いのもどうかと思うがな」と苦笑いを零す。
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